人間は塔に何を求めているのか
明治末から昭和前半期あたりに活躍した作家、知識人が、関東大震災で失われた「江戸情緒」を追慕する随筆・評論を集めた「失われた江戸を求めて」(古典教養文庫Kindle版)が面白い。明治期に奔流のように流れ込んだ欧米の文化によって、江戸の文化が飲み込まれ、そして関東大震災によって、ハード面も含め江戸の面影の多くを失ったことを、この本を拾い読みするだけでも改めて認識でき興味深い。そのなかに、明治大正の作家であり画家でもある淡島寒月の「江戸か東京か」という随筆があり、江戸末から明治15、6年頃までを見渡し、下町を中心にして江戸が東京に変わっていく様を雑談風に書いている。
その一節に当時の流行り物として、「浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいものものと目がけてた。可笑かったのは、花時に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませんでした。今の浅草の十二階などは、この大きいものの流行の最後に出来た遺物です」とある。この文章を読んで、ふと、日本人の塔への認識が大きくこの時期に変わったのではないかと、思い至った。それまでは、日本の民衆にとっては、建造物あるいは構造物の塔はただ仰ぎ見るものだったのではないか、ということである。
このことに思い至ったのは、建築学者で景観に関する研究者である樋口忠彦の「日本の景観 ふるさとの原型」という著作だ。そのなかで、日本人がもっとも愛してきた景観は「山の辺」にあるとし、それは、「背後に山を負い、左右は丘陵に限られ、前方にのみ開いてる」という「蔵風得水」型景観だとしている。この景観が愛されたのは、島国、温和な気候、森林、山国という日本の自然条件にあり、「この母性的な自然が、古代人の原体験や童や女のような感受性を温存させてきた」からだという。すなわち、背後を山で包み込まれるようにして守られるとともに山の幸に恵まれ、一方、川からは一定の距離を置きつつも水等の供給、舟運にも便利な「母の懐のような」場所であったからだというのだ。そのため「山の辺に棲息地を営んできた日本人にとって、眺望をほしいままにする楼閣建築は不要であり、国見山のような平地に面する端山で充分であったのであろう」と風土論的に推論している。
この背後の丘陵、端山を樋口忠彦は「国見山」型景観とし、地面から垂直に突出する山に、力強い意志力を感じ、それに神が宿る、あるいは降臨すると信じ、とくに支配者は登ることによってその意志力を身に引き受け、頂上に立ち大地を睥睨する感覚を満たしていたという。また、その地域に、姿、形の整った、鬱蒼とした樹林に覆われた小山があれば、神が降臨する山として、信仰の対象となっていた。これを樋口忠彦は「神奈備山」型景観として、「国見山」型景観とあわせ、「蔵風得水」型景観の構成要素としている。
中世以前の日本には、眺望型の塔状建築がなかったという点については、建築学者の太田博太郎も「八世紀には五重どころでなく七重塔が、東大寺をはじめとして各国の国分寺に建てられ」ているが、基本的には塔に登るという機能はないとしている。それらは、そこに登って眺望をほしいままにするための高さではなく、下から「見上げるための高さをもった建物だ」という。これは中国大陸のように広大な地形のなかで、街を城壁で守り、権力を誇示する必要があった中国の高楼、例えば西安の大雁塔などの塔状建築との大きな違いとなっているとも述べている。
たしかに日本においては、仏教が入ってくるまでは、潮見台など実用的なもの以外の塔状建築は、ほとんど見られない。仏教が入ったあとの仏舎利塔としての多層塔も、登って眺望を楽しむ機能はなかった。が、例外もある。出雲大社の大神殿だ。この大神殿はもっとも高い時は48mほどあったというから、高床造りとしても塔状建築に近かったのではないだろうか。古代における神社は、基本的にはほとんどが山や滝、木などの自然そのものを神域としていたので、建築物としてはさほど大きな物は造っていない。出雲大社が鎮座する場所は典型的な「蔵風得水」型景観であるが、大和政権にとって、支配下に取り込むに際し権威付けのための神奈備山の代償として、この大神殿を建造したのだろうか。もちろん、この大神殿に民衆が近づけたかというと、それはあり得なかった。
さらに興味深いのは、この大神殿の最初の建造の時期は定かではないが、その建造と相前後して仏教勢力が力をつけ法隆寺が建立され、こちらの地勢も「蔵風得水」型景観であるということである。法隆寺のある斑鳩の里の場合、矢田丘陵が背後に控え、前面に大和川とそれに流れ込む竜田川、富雄川に囲まれた地域である。竜田川と大和川の合流点近くには神岳神社のある三室山という小山があり、小さいながらまさに「神奈備山」型景観となっている。法隆寺の建立当時の景観は、おそらくは、難波津から大和川を遡航し奈良盆地に入ると斑鳩の里が北に大きく開け、竜田川の合流点近くに神奈備の小山がまず見え、さらに進むと、法隆寺の塔頭、とくに五重塔が矢田丘陵の緑をバックに燦然と輝くという構図になるのだろう。まさに仏塔としての五重塔が効果的に景観を形成することになる。ここでも民衆は五重塔を仰ぎ見るだけのものだった。
それでは、世界的には塔状建築の歴史的、思想的な位置付けはどうであったのだろうか。日本との違いを梅原猛が独自の視点で論じている。「塔と日本文化」のなかでは、まず、バイブルにあるバベルの塔のような何ら実際の役に立たない高い塔をなぜ建てるのか、という問いを立て、オランダのマグダ・レヴェツ・アレクサンダーの所論を引用して、「アレクサンダーは塔を通じて人間とは何かを問うている。人間は何らかの高所衝動というべきものを持っている。天に向かってできるだけ高く昇ろうとしていること、その感情は権力への衝動」とも似ているとし、それを一つの答えにしている。ただし、同じヨーロッパでも理性が勝っているギリシア文明では「ギリシアには塔がなかった」と述べ、「塔にかわって権力への意思を表わすのは、ギリシア建築においてはむしろ柱である」が、「この縦への意思である柱もまた限界を有する」とも指摘している。
すなわち、人間は元来、「高所衝動」を本能的に有しているがゆえに「権力は権力を求めて止まず、塔は高さを求めて、止まることを知らない」のであり、それがヨーロッパの塔の本質だとしている。この点については、建築文化評論家の林章が、バベルの塔のような「天にもとどく塔は、この世界を創造した絶対者にして超越者に対する挑戦あるいは冒涜」であり、逆を言えば、「この塔をつくろうとした人びとは、神にではなく、自分たちの手でつくることで、自分たちが何者であるかを確認しようと情熱を燃やした人たちでもあった」とも評している。
しかし、その後は、教会勢力の登場により、神との媒介者としての教会の権力を誇示するため、天に向け意志を持って上昇としようとする塔状建築が建造され続けたのだ。
また、建築史・都市文化論の研究者である橋爪紳也によるとイスラムの教会建築であるモスクでは、ミナレットと称する尖塔をモスクに建立するが、これは「塔の存在が、信仰の度合いを示す」ものだと言い、キリスト教的な権威主義的な精神性とは異なるとしている。
現代における塔の意味
日本の建築思想においては、梅原猛が指摘しているように「神社建築がもっとも古い日本人の造形意思を示すとしたら、それは自然に囲まれ、自然に従った人間の意思を示す」のであって、棟木や屋根のラインが日本建築の主役となっている。そのため、「日本のA字形の線はむしろ空へ昇ろうとする意思より、地に安定しようとする意思を表している」という点が日本の建築思想の特性であり、日本にはもともとは塔という発想がなかったといえよう。
そこに、現世肯定思想の大乗仏教の流入により、「日本人に初めて無限への憧憬を教えた。たとえば、法隆寺の塔である。この塔のように無限に天へ昇ろうとする意思の力を持ち、孤独で不安な建物はかつて日本には存在しなかった」と梅原は述べ、仏教が日本の塔状建築に与えた影響を論じている。仏教における塔である舎利塔としての役割は、舎利(釈迦の骨)を埋める場所であり、それが塔の中心でそれを守るためにある。しかし、その一方、大乗仏教は現世を肯定したがゆえに、人間の意思としては天に向かって延びんとしており、この二つの力の矛盾から仏教の塔は成りたっているとも、梅原は指摘している。それが中世以降の日本の建築思想の複層性につながっている。
日本において中世以降に現れる塔としての天守閣などの城郭建築の意味は、樋口忠彦によれば「近世になり城下町が平地につくられるようになり、また、強力な権力をもった支配者が登場することにより、禅宗建築や金閣や銀閣などの楼閣建築の発達という蓄積に支えられながら、あの天守閣をもつ壮大な城郭建築」が生まれたというのだ。支配者としての現世的な権力誇示という人間の本質と、日本の風土、自然環境とのせめぎ合いのなかで調和させようという力が働き、日本の城郭建築の形として落ち着いたのではないだろうか。
実際、今は我々がイメージするような天守閣、すなわち塔状建築物を有する城郭建築は、戦国時代から江戸時代初期に建築されたものがほとんどであり、歴史的にはそう長い期間ではなかったこともその証左かもしれない。この点について、樋口忠彦は、これらの天守閣はもちろん登るという機能は付され、「国見山型」景観の代償となりうるものであり、支配者の権威付けという側面では「神奈備山」型景観の代償景観だとしている。
西洋、東洋、日本のそれぞれの塔状建築は、風土的な影響、信仰のあり様、精神性など、さまざまな要素によって歴史的発展過程が異なることが理解できるが、産業革命による市民の誕生により、塔状建築の社会的位置づけがどの地域においても大きく変わっていく。それまでは、信仰の対象であったり、その権威付けであったり、あるいは支配者などの権威者たちの権力意思の表現だったものが、民衆のものとなったのだ。
その象徴的な存在がエッフェル塔であろう。万国博覧会の客寄せあるいはシンボルのために当時の最先端技術の鉄塔が構想された。天に向かう無限の意志が、権力者ではなく、民衆のために、初めて発揮されたともいえよう。それまでのパリの都市景観としてのスカイラインを大きく変更するものであったので、当然ながら、文化人をはじめ多くの建設反対者があったと言う。
興味深いのは梅原がこの時期以降にアメリカのように近代文明の所産のひとつである「摩天楼は塔に似ているが、それは塔ではない。それは、むしろ巨大な建築物にすぎず、そこには塔につきものの理想を目ざす不安な精神的衝動のようなものはない」と近代文明における「塔」においても、その精神性を問い、巨大建造物との差異性を求めていることだ。
橋爪伸也は近代の塔について、「エッフェル塔の本質は、その多義性にこそ見いだされる。鉄塔は、都市のランドスケープにあって不可欠な美観の構成要素となるという以外に、市民や観光客に絶好の展望の場を提供した。加えて、高層の気象を測定する場、博覧会場の夜景に彩りを添える照明を設置する場という機能を担い」、その後、「電波塔」の役割も担うようになったと指摘している。
いずれにせよ、客寄せというエッフェル塔的な発想が、幕末から明治にかけて西洋文化の流入とともに、日本にも波及し、冒頭の淡島寒月が当時の東京で眺望をビジネスとする流行についてのエッセイにつながるのだと、言ってよいだろう。
近現代社会において都市化が進めば進むほど、人々は樋口の言う代償景観を求めることになるとして、塔状建築は通信などの機能的、実用的な側面はありつつも、「国見山」型景観の代償であり、都会のスカイラインを彩る重要な役割を果たす。さらに、例えば、リリー・フランキーの「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」では、東京タワーについて「それはまるで、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。東京の中心に。日本の中心に。ボクらの憧れの中心に。きれいに遠心力が伝わるよう、測った場所から伸びている」、そしてさらに「ある人が言った。『東京タワーの上から眺めるとね、気が付くことがあるのよ。地上にいる時にはあまり気が付かないことなんだけれど、東京にはお墓がいっぱいあるんだなぁって』」と主人公に語らせている。これを見ると、東京タワーは「国見山」の役割はもちろんのこと、「神奈備山」の役割を代償景観として果たしていることがわかる。それは通天閣も同様の役割を大阪という大都市の中で割り当てられているといっても過言でない。
現代においても、全国各地に電波塔のような機能的な塔のみならず、観光用、展望用の塔状建築物が建造されているが、「東京スカイツリー」のように機能的な塔としても、観光用、あるいは集客装置としても、成功しているものは存外少ない。たとえ、一時的な集客はあっても、持続性に欠け、必ず低迷期を迎える塔が多い。じつは、東京タワーも通天閣も低迷期があった。これからもその波はあるだろうが、この2つの塔に限って言えば、とりあえずは、それぞれの都市のなかで存在感は確保できているようだ。だが、多くの塔は運営上の困難をきたし、経営的な低空飛行が続いたり、撤退したりしている。
それでは、塔がその地域で、都市で存在感を出しつづける要素はなんだろうか。これまでの塔状建築の歴史を振り返ってみると、ひとつめは、その都市、地域において、その街のスカイラインを革新し、街のシンボル的景観とした造形美が必要であること、二つめは、「神奈備山」的な、神秘性や祝祭的な役割を果たせること、三つめは、「国見山」的な眺望性があること、そして、最後に、機能としての公共性があるものが付け加えられれば、さらにその持続性が担保されるのではないだろうか。
この意味では、ひとつの可能性として、もっと活用されてよい塔状建築は、現在太平洋沿岸に建造されている津波避難塔である。現在の避難塔は、機能のみを追求した武骨な鉄骨組みが多く、その街のスカイラインに重圧を加えるだけのものも多い。津波避難塔は極めて重要な避難という機能さえ担保できれば、高さは求める必要はない。しかし、街のスカイラインを革新できるようなデザイン性を織り込み、海岸線や漁港、街並みを「国見山」的な眺望性も確保し、さらには、「神奈備山」型の街のシンボルとしての仕掛けや祝祭的な役割も持たせれば、避難塔への関心は高まるし、多義性が発揮できるのではないだろうか。そんな津波避難塔を夢想してしまう。
引用・参考文献
- *淡島寒月「江戸か東京か」 古典教養文庫「失われた江戸を求めて 」(Kindle 版)
- *樋口忠彦「日本の景観 ふるさとの原型」ちくま学芸文庫
- *太田博太郎「日本の建築 歴史と伝統」ちくま学芸文庫
- *梅原猛「塔」「塔と日本文化」梅原猛著作集第九巻 1982年 集英社
- *橋爪紳也「日本の塔 タワーの都市建築史」河出ブックス
- *リリー・フランキー「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」扶桑社