[Vol.13]日本の道

 「道」は、人間の営為があって初めて存在する。もっとも獣道は、動物の行動パターンによって出来上がるし、風の道というものもあるが、これは風土、地形が生み出すもので、人間の営為への比喩的表現である。人間にとっての「道」は、自分の営為や行動様式に沿って、自然に出来上がっていったものを、より使い勝手が良いように改善に改善を尽くして、現在の「道」になったといえよう。だから、多くの「道」は人間の営為の変化、進展によって、その興廃が委ねられ、時代によってその価値も変わる。日本の歴史の中でも、交通手段が陸路ではなく海路が重視された時代、地域もあった。それがまた、「道」のあり様にも大きく影響を与えていた。

 このような「道」のあり様や移り変わりは、人流、物流はもちろんのこと、景観、文化、生活様式の変化に密接につながる。それは、たとえば、塩の道、鯖街道のように古くから日本海側と信州や京都などの内陸部をつなぐルートが設けられており、塩や鯖などの物流はもちろんのこと、文化の相互作用や嫁入りなどの人的交流も行われてきた。

和歌山県:熊野古道中辺路の道

 山梨県にある早川町は、狭隘な谷をなす早川の両岸の山襞に江戸時代には19ヵ村がへばりつくようにして散在していたという(1981年の合併時では6ヵ村)。西側は3,000m級の南アルプスが連なり、東側には南アルプスの前衛となる2,000m級の山並みが立ちはだかる。それゆえ、かつては上流下流の行き来さえ困難を極めたというが、それでも縄文遺跡が河岸段丘の上から発見されるほど定住は古い。山での収穫物と焼き畑的な自給自足によって、それなりに生活基盤を作ることができる環境なのかもしれない。しかし、他地域との交流には、どうしても2,000m級の峠越えや切り立った河岸壁を越えていく必要があった。そんな厳しい環境であっても、人流も物流も一定程度確保されていた。杣道のような細い険しい山道を通じ、2,000m級の峠を越えて甲府盆地や静岡の井川、さらには信州の伊那谷ともつながっていたという。杣道とは言え、奈良時代から続いたこれらの道は、この地域の生活と文化を細く長く支えてきたといえよう。

山梨県:七面山への道

 いまは、森林開発や電源開発のため、林道が切り拓かれてはいるものの、その林道はフォッサマグナの近くにあるせいか、常に崩落が続き、通行止めとなることが多く、維持も困難になりつつある。それは、ここ30年間に山の仕事が成り立たなくなり、この地域が過疎化したと言う以上に激しい人口減少が進んだからだ。ちなみに、この早川町の町域においては1960年代には電源開発の影響もあり人口は1万人を超えていたが、2016年には1,069人と10分の1となっている。

 ただ、ここに来て大きな変化が起こっている。それはリニアモーターカーの中央新幹線の工事で、フォッサマグナを突っ切り早川町を横断し、南アルプスをぶち抜く。この工事のために早川に沿って走る県道37号線(南アルプス公園線)の整備が進んでいる。さらに、これまでは広河原林道の通行規制が必要だったため、一般車は早川町奈良田で行き止まりであったが、この整備の一環で夜叉神峠を越え、甲府盆地とつながる予定だ。まさに行き止まりの町から脱することができ、この道を観光振興の梃子として町の存続をかけている。しかし一方では、利便性の高まりは他の地域でも見られるように人の流出をさらに加速させる可能性もある。それほどに「道」が町のあり方そのものを問うことになるのだ。

山梨県:赤沢宿の道

 このような状況は、早川町ばかりか、今、日本の地方ではどこでも起こっていることである。その典型的な事例として四国山地もあげることができる。

 四国山地の「道」を考えるとき、1980年代に書かれた司馬遼太郎の「街道をゆく」の「檮原街道」は、二重の意味で興味深い。すなわち、80年代の観察眼の鋭い作家がその時代の「檮原街道」と坂本竜馬の脱藩ルートとして知られる幕末のその「道」をどう見ていたのか、そして、今のわれわれが、司馬遼太郎の目線からみた80年代、幕末の「道」を知ることにより現状の「道」のあり様を見つめなおし、これからの「道」を考える材料とすることができる。

 「街道をゆく」は歴史的背景のある「道」を軸にしつつ、ほとんどの叙述は、「街道」とは言ってもその周辺にある司馬遼太郎が興味をもった人物や歴史的事件を掘り起こすところに力点が置かれている。もちろん、これにより取り上げた地域の歴史的背景、価値を見出そうとした労作であるが、一方では、存外、「道」そのものの叙述は少ない。その中にあって、司馬遼太郎はこの「檮原街道 脱藩のみち」では、「道」についても詳しく描写し、その蘊蓄も語っている。梼原街道は土佐藩を脱藩する志士たちが、隣藩の伊予に抜けて行ったルートだったが、そのなかでも、やはり坂本竜馬が1862(文久2)年3月にこの道を通り、伊予大洲を経て長州に脱藩したことで知られる。司馬遼太郎も須崎から梼原に向けてこの街道を踏査し、その歴史的背景や人物を取り上げている。

 司馬遼太郎は「檮原への道は、いまも容易ではない。山中の盆地である佐川からそのまま西方の山脈をめざせばいいのだが、途中、多くの尾根がはばみ、鳥ではないかぎりそのようにいかない。いったん檮原方向から遠ざかって、海岸の須崎にでるのである」としている。佐川から須崎までの道は「坦々としていると思ったのに、山また山だった。最後に、須崎の小さな海岸平野におりていくときは、山中の道をうねりにうねっていて、逆に山中へでも入ってゆくような感じがした。にわかに、眼下に海が光り、須崎の集落がみえるのである」と道筋の厳しさに驚き、高知城下からの「脱藩のみち」が、当時の西土佐の要衝の地須崎にたどり着くのにも容易ではないことを記している。

 さらに、司馬遼太郎は須崎から、西方向にあたる梼原に向かう。「道路はしだいに高くなってゆく。ゆきすぎる地名をみても、山家をおもわせるのである。姫野々、栗ノ木、鍵野々、杉ノ川、二つ家といったふうで、たとえば坂本竜馬の脱藩のときも、この村々」を経て、「吸いこまれそうなおおぶりの大ぶりな谷を見おろしつつ、かれらは尾根みちをへて檮原に近づいて行ったのである」と実況中継さながらに坂本竜馬の脱藩の道筋を描写している。司馬遼太郎がこの道を踏査したのは、1980年代だったので、もちろん、現在とは道路状況が異なっているが、自動車の道路としては、現在も佐川から直接梼原に行く道はなく、須崎を一旦、経由することになる。

高知県:貝ノ川棚田の道

 ただ、村上恒夫によると、坂本竜馬が佐川から現在の津野町に向けて歩いた道については2つの説があり、佐川から北西に向かい越智町に出て、現在の国道439号線沿いに山谷を越え、津野町の新田(津野町西庁舎付近)で、国道197号線(梼原街道)に出てくるコースか、佐川から須崎方面に少し南下し、そこから朽木峠を越え葉山というところで、同じく国道197号線に合流するコースか、いずれかというのである。要するに須崎の海岸部を経由していないことになる。

 前者はまさに多くの山谷を越え、現在でも難路だが、当時は街道と言っても杣道に近かったのではないかと、思われる。後者にしても、山道は短いが、急峻で、司馬遼太郎がいう「多くの尾根がはばみ、鳥ではないかぎりそのようにいかない」西方の山並みを越えたということになる。後者の道は現在でも自動車では通行できない。実踏した村上の推測では後者のコースをたどったのではないかという。

 司馬遼太郎が挙げた脱藩の道の村々の地名からみると、現在の津野町に入ってからは、狭い山道の街道だとしても、必ずしも「尾根みち」ではなく、新荘川の河岸段丘の上を歩き、「布施坂」や「野越」など、いくつかの急峻な峠、山越えをして梼原に向かったと思われる。村上が踏査した1980年代後半には、この旧街道は、「新荘川に沿うように、昔のままに、所によっては舗装され、また、所によっては、完全に国道に消されてしまいながら、西に向かって続いている」という状態であった。

 幕末当時、このような厳しい難路を経てたどり着いた、現在の津野町と梼原町の地域は、近世以前は山間文化圏を形成し、「津野山」と総称され、延喜年間から稲作が始められており、自給自足的な経済圏が確立はしていた。司馬遼太郎もこの津野山の道を走りながら「谷を下に見ながら、道は蛇行している。山々が折りかさなったなかをゆく。本来、山こそ日本なのである。低地に住むようになったのはせいぜい二千年前からのことで、この国に弥生式といわれる水稲農業が入ってからのことにすぎない」と述べている。その山の生活を支えていたのが、「旧道は、栗の枝の下で、あぜみちほどのかぼそさで遺っていた。竜馬たちは、関所前のこのあぜみちを踏んで西へゆき、渓流を渉り、ふたたび山中に入ったのである」と、竜馬たちの脱藩の道として頼りなげな山道を表現しているが、まさにその道だったのだ。これらの道では人流、物流が限られているからこそ、津野山文化圏が確立されたのであり、逆説的には、それでも外部からの人流、物流も限られたとはいえ、困難を乗り越えても確保されていたからだともいえよう。

高知県:一斗俵沈下橋

 現在、高知から須崎には、佐川には寄らず高知自動車道で直接須崎にたどり着けるし、佐川経由の一般道もトンネルが掘られ、道幅も2車線あり、山道には違いないが、困難性は全く感ずることはなく、快適なドライブとなる。また、現在の須崎からの道筋は、「大ぶりな谷」と表現された新荘川沿いの整備が行き届いた国道197号線を遡るので、両サイドは山並みが続くものの、開けた明るい谷を走ることになる。しかし、村上より前にこの道を踏査した司馬遼太郎が通った頃は、まだ、いくつかのトンネルが未開通であり、道幅の拡幅も十分ではなく、「酷道」とも評されていた国道のひとつだったので、現在の印象とは大きく違っただろう。

 幕末の徒歩を前提とした道から、100年余を経て自動車を前提とした道路網の整備が格段に進んだ事実とこの地域の人口推移を考え合わせて見てみると、意外なことがわかる。明治期のこの地域の人口については、確認できなかったが、国勢調査があった1920(大正9)年でみると、現在の津野町、梼原町を合わせて、1万7千人ほどが居住していた。1960(昭和35)年には2万3千人ほど、司馬遼太郎が訪れる少し前の1980(昭和55)年では、すでに1920年を下回り、1万4千人ほどとなり、2015(平成27)年には9,400人ほどとなっている。しかも、どの集落においても高齢化は著しい。自動車を前提とした道路網が整備され利便性が高まるも、結局この50年のほどは人口の流出につぐ流出であった。

愛媛県:久万高原の林道

 日本における自動車を前提とした道の整備について考えてみれば、たかだか100年余りの歴史しかない。1907年頃の日本全体の人口は4,800万人程度とみられ、自動車登録台数は16台しかなく、現在の人口は1億2,600万人ほどなので約2.5倍となり、自動車も8千万台を超えている。当然のことながら全国的には人口密度が高まり居住地域が拡大し道路網も急速に整備されたが、人口推移から津野山という地域を見ると全く逆の様相になっていることが分かる。

山梨県:八ヶ岳高原の道

 この地域において大幅な人口減少が道路に与えている影響は、国道やバイパスなどの主要道路からちょうど毛細血管にあたる脇ルートや旧道に入ると通行の困難性として如実にあらわれている。かつては、すべての道が人馬のみが通ることを前提にしているので、その道幅も山中ではメインの道も脇道も大差はなく、運搬手段も限られていたが、それはそれで、一定の生活、生産の道として機能をしていた。梼原街道も梼原から先、伊予に向かう道も明治期以前は狭隘ながらも、まさに隣の藩との人流と物流の命綱だったのだろうし、津野山の地域においても、梼原街道を軸に山襞深く毛細血管のように道が入り込んでいたのだ。そして、細々ではあるがしっかりと役割を果たしていたのである。

 明治期以降に至り、近代的な林業が発展し、奥深い山中に森林鉄道や林道が敷設され、それが山深い地域の産業を支えることにもなった。ところが、1970年代以降、それが崩壊の一途をたどり始めた。原因はふたつ。ひとつは林業の衰退、そして、もうひとつは日本の工業化による大都市圏への労働力の吸い上げである。これがボディーブローのように効き、生産性の悪い、悪条件の山間部から人が引き揚げ、それに伴い、山が荒れ、また、山間部の工夫として営々として築きあげてきた段々畑や棚田が耕作放棄されつつあり、道が機能しなくなっていくのだ。山に張り巡らされた林道の荒廃も痛々しい。それが、さらに周辺の集落の社会インフラを脅かすことになり、負のスパイラルに陥って撤退が続かざるを得ない。津野山の地域においても、幹線道路から一歩外れれば、まさにそんな状況なのだ。

 こうしてみれば、日本の多くの山間地での撤退戦はすでに30年前くらいから始まっており、いまは撤退が決定的な状況となっている。これからはさらに撤退と荒廃の悪循環が加速度的に早まると言って過言ではない。すでに毛細血管にあたる道が、過疎化、人口減少によって維持するコストパフォーマンスに合わなくなっているからだ。主要道が整備されれば便利さが増し、人は主要都市に吸い上げられ、毛細血管は衰えていく。自動車を前提とした道路を含む交通体系は、この60年ほどで格段に整備されたものの、それが今度は、急激に萎もうとするとき、新たな交通体系のありよう、あるいは、居住地域のありようが問われてくるだろう。しかも、すでにその調整が地域では急激に始まっていると言って間違いない。

山形県:山刀伐峠への道(奥の細道)

大分県:豊後竹田の道

 こうした現状を地域で見れば見るほど、人口減少化のなかで、国土をどのような活用しどのように保全していくか、開発の観点からのみではなく、自然との共存という観点からも見直す必要があろう。人間が居住する地域への影響を考えれば、周辺あるいはその外延部の自然をなすがまま放置することはできない。一定の管理とメンテナンスをしていかねばならない。道路政策について、どうしても高速道路網の拡大や主要道整備に話が向かいがちであるが、実は、この毛細血管の道路網をどのような理念のもとに撤退または維持していくかを問われており、それはとりもなおさず、われわれ自身がこの国での住み方や仕事の仕方、生活の仕方まで問われつつあるということだろう。主要大都市に集中するのか、それとも一定の分散型を目指すのかなど、国土の再設計が問われているのでないだろうか。そのなかでの観光の役割も極めて大きい。私としても全国の町々や山野の風景を画像で捉えながら改めて見つめ直してみたい。

福島県:只見川歳時記橋

引用・参考文献

  • *司馬遼太郎「街道をゆく㉗ 因幡・伯耆のみち、檮原街道」朝日新聞社2005年
     (週刊朝日連載:1985年7月26日号~1986年2月28日号)
  • *「坂本龍馬脱藩の道を探る」村上恒夫 新人物往来社
  • *「脱藩の道.com」 http://www.dappannomichi.com/jiten/jiten-001.html
  • *自動車台数推移:自動車検査登録情報協会による
  • *人口推移:日本銀行「明治以降本邦主要経済統計」による
  • *総務省統計局 現在の人口:【平成30年9月1日現在(確定値)】<総人口> 1億2641万7千人
  • *国土交通省HP「道の歴史」 http://www.mlit.go.jp/road/michi-re/index.htm
筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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