里の雑木林
私にとって林や森といえば、子供の頃よく登った甲府盆地の北にそびえる帯那山(標高1422m)への沢伝いの登山道がもっとも印象深い。帯那山へは、現在は頂上直下まで林道が通じているが、60年ほど前は武田神社の北、積翠寺温泉から洞集落を過ぎ、鬱蒼とした杉林のなか沢伝いに太良峠(標高1110m)まで登る。その沢伝いの杉林は昼でも薄暗く、子供だけ、あるいは、一人だけで登っていくと、木々の奥深くから誰かが自分を見つめており、少しの物音や風の揺らぎで襲い掛かってくるのではないか、という恐怖に苛まれながら速足で登ったものだ。しかし、それでも、なぜか、その道を何度も通った。おそらく、この林を過ぎたあとの開放感と山頂にたどり着く達成感を味わいたかったのではないだろうか。子供なりに自然への「恐れ」や「親密感」をもつ良い機会だったのだろう。
大人になって関東平野のど真ん中で暮らし、仕事で都心に通う日々を送っていると、林や森への関心も薄れ、子供の頃の林や森へのセンシティブな感覚を失ったかもしれない。しかし、ここ10年ほどカメラを持ってこの関東平野を歩き回ってみると、波状的に広がるこの平野に、点在する林や森が景観形成の重要なアクセントになり、自然と人間の調和をなんとか保つバランサーのような機能になっていることに気付く。
こうした林や森のあり方にいち早く気付いたのは、現在より遥かに林や森が残されてはいたものの、急激な近代化、都市化によってその景観が失われつつあった明治期の文豪たちだった。徳富蘆花は、「自然と人生」のなかで東京の西郊、多摩の風景を「幾箇の丘あり、谷あり、幾條の往還は此谷に下り、此丘に上り、うねうねとして行く」、そして谷や丘には田畑が切り拓かれ、「其処此処には角に劃られたる多くのの雑木林ありて残れり。余は斯の雑木林を愛す」と書いたうえで、四季の美しさを縷々述べている。
また、国木田独歩は「武蔵野」のなかで「林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴したたるばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈する」と武蔵野の景観を賛辞し、四季折々、そして時間帯による景色の遷移を事細かく描写している。
国木田独歩は武蔵野の範囲を「雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し」、さらに「入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る」。西半面は「立川からは多摩川を限界として上丸子辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る」。東半面は「亀戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる」と自分の趣味だと言いつつも、お気に入りの場所を列挙し、その範囲を規定している。これらの叙述から、いかに明治の文豪たちが武蔵野の景観に心を寄せ、そこに展開する林や森を愛でていたかが分かる。
だが現状では、国木田独歩が規定した範囲では、彼の愛した武蔵野の景観は、入間郡(埼玉県)の一部を除いては、ほんの僅かばかりしか残っていない。ただ、もう少し範囲を広げ、関東という目で見ると、まだまだ、その風情を残している景観に出合うことはある。
それではこうした景観がいかに形成されてきたか、柳田国男は「明治大正史世相篇」のなかで「開墾はしばしば隣村の燈火を互いに見るようになって、心の交通もまた繁くなった。森の伐り残されて多くの喬木を抱えていることが、このうえもなく嬉しくなった。最初はただ神霊の所在を侵さぬように、土を封したのがもりであったろうが、それにこの通りの村の信仰の記念物が立ったのである。周囲のただの林や雑種地が畑になって、かえって古い森の美しさは加わったようである」と論考し、武蔵野を含め、日本の平野部の林や森が近世、近代における景観形成のポイントとなったとしている。
徳富蘆花や国木田独歩は武蔵野の景観を描写する際は、「林」という表現が中心に使われているが、柳田国男は「神霊の所在」と絡めて森についても語っている。それでは、そもそも「林」と「森」との違いはなんだろうか。
広辞苑では、「林」は「樹木の群がり生えた所」、「森」は「樹木が茂り立つ所」としている。また、上田正昭は古代ヤマト言葉の「『モリ』(母理・文理・茂理)」は「本来は自然の樹林を意味し、何らかの人工が加わった樹林は『ハヤシ(拝志・拝師)』とよんだ」としており、「自然林は山にあって『モリ』をなし、里や山麓などには『生やし』た樹林が形づくられる」と説明している。さらに、万葉集では「杜」も「社」も「モリ」と読ませ、「神奈備」の山、神木などの信仰と森は密接に関係があるとも指摘している。「モリ」は「盛り」など丘のような盛り上がりがあるなど、ハヤシも含め語源は諸説あるが、いずれにせよ日本人にとって「森」は神の存在を抜きには、考えれられないといえよう。私が子供のころ、太良峠に向かう杉林のなかで、感じた「恐れ」は、その存在が刷り込まれていたかもしれない。
鎮守の森
「森」と日本人の信仰との深い関係性のなかで、祈る場や塚、そして社(やしろ)などが生まれると、これらの神々の「森」は「御嶽(うたき)」「塚の木立」「社叢」「社寺林」「神林*1」「境内林」「鎮守の森(杜、社)」などと称されようになった。
そのなかで、現在、神と森との関係を端的に、かつ親しみをもって使われる言葉は「鎮守の森」だろう。だが、この「鎮守の森」という表現は古くから使われたように思われるが、意外にも近代以降に定着したというのが現在の定説のようだ。
「鎮守」という言葉自体は、上田正昭によると三国志にも見られ、軍事用語として使われており、日本でも同様に使われた、としている。一定の地域を守護する神あるいは社を「鎮守」と称するようになるのは、10世紀の「本朝世紀」での用例*2がもっとも早いのではないかとも推測している。また、柳田国男が同じ集落のなかにある氏神と鎮守の違いを「私の生れた部落では、祭をいとなむ神社が二つあつた」とし「その一つは鎮守さん」であり、「八つか九つの大字が合同して年にたゞ一度、秋の収穫の終りに近い頃一ばん大きな祭が一つだけ」催され、「今一つの方は氏神さん、又は明神さん」と言い、「他のすべての祭はこの方に有るのであつた」という。社格では鎮守は郷社で氏神または明神は村社であったが、「私たちがたゞ御宮といひ神さんといふときは」、氏神または明神の方であったとも自らの体験として記している。
上田正昭はこれらの様々な神社、神様が「鎮守の神様」として、総括的かつ一般的になるのは明治期に入ってからで、1912(明治45)年に小学唱歌として採用された「村祭」*3の歌詞として出てくる「村の鎮守の神様」に負うところが大きいと指摘している。それでは「鎮守の森」という合成された言葉についてはどうかというと、綱本逸雄は、「村祭」の二番の歌詞では「宮の森」であり、「鎮守の森」はそれ以降に使われるようになったのではないかともしている。
確かに江戸期では、例えば近松門左衛門の「曽根崎心中」では、曽根崎村の鎮守であった露天神社の森にも関わらず、「天神の森で死なんと」、「心も空も影暗く、しん/\たる曽根崎の森にぞ辿り着にける」あるいは「曽根崎の森の下風音に聞へ」と表現しているように、具体的な神社名や地名で「森」を示している用例が多いのかもしれない。ただ、明治期に入り、1885(明治17)年に出された三遊亭円朝の「鹽原多助一代記」の演述速記には「叔父の事も心に掛かりますから心配しながら、鎮守の森も之が見納めか」と書かれており、1902(明治35)年に発表された田山花袋の「重右衛門の最後」にも「疎らな鎮守の森を透して、閃々する燈火の影」、「月の光に黒く出て居る鎮守の森の陰」など数か所ですでに使われている。このように綱本逸雄の指摘より早い時期から使用例はあるが、これは「鎮守」が神社一般を表す使い方はされていなかったものの、特定の集落や郷のいわゆる鎮守社の森を「鎮守の森」と表現することは行われていたのだろう。
それではなぜ、近代以降に「鎮守」が一般化され、「鎮守の森」は定着したのかといえば、国家神道が明治政府の統治政策の主軸になったことに関係すると、考えてよいのではなかろうか。「明治の神仏分離は皇統と楠木正成ら国家の功臣を神として祀り,村々の産土社をその底辺に配した神々の大系づくり」であり、「加えて,全国の社寺林の多くを没収し官有林にした」と綱本逸雄は指摘している。すなわち、国家による神様の体系化を図り、天津神、国津神を頂点とし、土着の産土神などを底辺にする序列化を図り、神社合祀も進めたのだ。第2次世界大戦以前の「村祭」の本来の三番の歌詞には「治まる御代に神様のめぐみ仰ぐや村祭」(現在は差し替えられている)とあり、このことを如実に表している。
このような統治政策から生まれた「鎮守の森」だが、実態としてどのように形成されたかというと、綱本逸雄は「社寺林が里山と違って相対的に自然性の高い樹林であるのは、古くから信仰の森として大切にされてきた」とする一方、「近世の地誌類や古絵図をみるかぎり社殿近傍をのぞいて、境内地はたいがいアカマツ林で植生が貧相」であるともしている。これは「境内林の薪材用の枯損木,落葉,柴草などは神社経営にとって欠かせない収入源だった」ため、人の手が入った鎮守の森が多く、移植や遷移が進み、「今日どこでもみられるような『こんもり繁った鎮守の森』が形成されるのは案外新しい」と指摘する。
現在の日本の森林を大雑把に分けると、宮脇昭は「スギ、ヒノキなどの針葉樹林の人工林、里山の雑木林、そして鎮守の森を主とする残存自然林」の3通りだとしている。人工林は近世近代に入り人工的に作り上げられたものであるが、里山の雑木林については、さらに古くから人の手が入り地域によってそれぞれ植生の変化があったという。例えば、関東ではシイ、タブノキなどの常緑広葉樹林であったものが、コナラ、クヌギなどの落葉広葉樹に遷移していったとされ、これが、徳富蘆花や国木田独歩が愛した武蔵野の雑木林の景観を生んだというのだ。また、宮脇昭は「鎮守の森」については、その周辺部には寺院や神社の用材、あるいは寺社領の収入源としてスギ、ヒノキ、マツなどが植えられ、コアの部分には潜在自然植生が残されているとし、常緑広葉樹を優占種とする照葉樹林がもっとも本来の形で残っているというのだ。
しかし、これも最近の研究から「鎮守の森」には、明治末以降、神社合祀政策により寺社の保有林が大幅に制限されたため、コア部分も含めかなり人間の手が入ったとされている。また、そもそも「鎮守の森」の潜在自然植生を照葉樹林だとする整理には無理があるという説が強くなっている。確かに照葉樹林帯の中心は南西日本であり、関東以北が必ずしもそれにあたらず、特に関東は照葉樹林の北限に近いため、混交が激しいことからもかなり人為的な移植、保全、放置などの要素があるといえよう。
すなわち、「鎮守の森」が近代以前の日本の景観を守っているとは一概には言えず、連綿と続く伝統的な景観、価値観を体現しているごとく扱われることについては、客観的に見つめてみる必要はあると言えよう。しかし、こうした歴史的な背景を踏まえつつも、日本人の営為によって形成された「鎮守の森」は保全していくべきものとして価値が下がるわけではない。
日本の貴重な森林形態であり、将来にわたり保全すべき「鎮守の森」は全国各地にあるが、典型的な事例のひとつとして、例えば、茨城県にある「鹿島神宮の森」を挙げることができる。44万㎡にも及ぶ森のなかには、スギ、シイ・タブ・モミの巨樹が生い茂り樹種は600種以上にも及び、生育南限と北限の植物が混淆していることが特色となっている。関東における「鎮守の森」のあり様を知るには格好の場所であり、実際に訪れてみると、その保全の重要性を感じざるを得ない。
日本人は長い歴史の中で、自然と共生しながら再生産との程よいバランスを求め、また、自然への崇拝と恐れを営みのなかに取り込んだ結果、田畑、里山、雑木林、「鎮守の森」などを構成要素とする丹念に人の手が入った景観を構築してきたことは間違いない。こうして構築された「里の雑木林」、「鎮守の森」の景観が、いまや、急激な都市化や宅地開発や工場誘致によってそのバランスが大きく乱れ、関東平野の南部では完全にそのバランスは崩壊している。一方で、人口減少の中で、関東平野部の周辺部においても、継続的な管理が必要な「里の雑木林」や「鎮守の森」も人の手が入らず、徐々にその機能や景観が失われつつあり、危機的状況といえる。
景観形成は、生活様式や生産様式に因ることが大きいわけだが、人口減少、生産構造の激変を考えると、時代に見合った景観をどのように構想していくかが問われているのだろう。私としては、自然と人間の共生のバランスから生まれる景観の美しさをカメラに捉えつつ、この問いへの答えを探し求めたい。
引用・参考文献
- *徳富蘆花「自然と人生(雑木林)」岩波文庫(昭和14年版)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- *国木田独歩「武蔵野」 日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集 集英社(青空文庫)
- *柳田国男「明治大正史世相篇(上)」 響林社文庫 (Kindle 版)
- *上田正昭「探究『鎮守の森』社叢学への招待」平凡社
- *柳田国男「祭のさまざま」柳田国男作品集(Kindle 版)
- *綱本逸雄「『鎮守の森』という言葉について」(「植生史研究」第7巻第1号 1999年9月)
- *近松門左衛門 「曽根崎心中」 近松傑作集. 第2・3編 文芸社 大正14年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
- *三遊亭円朝「鹽原多助一代記」 円朝叢談第8編 速記法研究会 明治17-18年 (国立国会図書館デジタルコレクション)
- *田山花袋「重右衛門の最後」 筑摩現代文学大系6国木田独歩田山花袋集 筑摩書房(青空文庫)
- *宮脇昭「鎮守の森」新潮文庫
注
- *1神林:1906(明治39)年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令に反対した博物学者南方熊楠は、その意見書の中で「従来地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林あり」と記し、「鎮守の森」にあたる森林を「神林」という言葉を使っている。(南方熊楠「神社合祀に関する意見」 南方熊楠コレクション第五巻 森の思想 河出文庫、河出書房新社(青空文庫))
- *2「本朝世紀」での用例:「天慶二年四月十九日庚寅…中略…一通鎮守正二位勲三等大物忌明神山燃」と鳥海山の水蒸気噴火を伝える記事のなかに、山岳信仰の対象となっていた山神(鳥海山)に対し「鎮守」の表記がみられる。(国史大系第8巻「本朝世紀」経済雑誌社1897-1901年 国立国会図書館デジタルコレクション)
- *3村祭り:『文部省唱歌の劇と遊戯』尋3の巻[佐藤秀美 桑文社 昭和8年] (国立国会図書館デジタルコレクション)より
一、村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日。どんどんひやらら、どんひやらら、朝から聞える笛太鼓
二、年も豊年満作で、村は総出の大祭。どんどんひやらら、どんひやらら、夜まで賑ふ宮の森
三、治まる御代に神様の めぐみ仰ぐや村祭り。どんどんひやらら、どんひやらら、聞いても心が勇み立つ