最近、観光地のストーリー化がしきりに喧伝されている。このこと自体は、観光に奥行きを与え、その土地、土地のアイデンティティを確認する意味からも重要なことと思われる。そのストーリー作りにあたって、自らの観光資源の魅力をどのように表現していくかは、プロモーションの方向性にも絡み、言葉選びも含め難しいものがあるだろう。とくに選択した表現や言葉の時代性が問われることもある。
観光を取り巻く社会環境が劇的に変化した戦後を見てみても、観光に関するストーリー作りのキーワードには時代性が現れている。そのひとつとして取り上げられるのが1970年代から1980年代にかけての「秘境」だ。高度成長経済からバブル経済に向かい、日本経済が急激に膨張し、国民の消費欲求も高まり、観光、旅行需要も急拡大した。これに呼応した、当時の国鉄のキャンペーン『ディスカバージャパン』が、さらに旅行のあこがれを膨らませ、新しいディスティネーションが求められ、「再発見」というストーリーに対応するキーワードとして「秘境」がもてはやされた。
ただ、ここで使われた「秘境」という言葉は、辞書に載っている「人跡のまれな、様子がよく知られていない土地」(「広辞苑」)とは異なり、高度成長経済下における観光の大衆化の進展によって、それまで観光の対象にならなかった場所といった程度に語義が拡張されている。当然のことだが、観光客が行くようなところであれば、それは「人跡のまれな」ところではないのだから、辞書的な「秘境」の語義とははずれてくる。しかし、旅行への誘いとしては特別感があって、マーケティング的に当時の社会的な雰囲気に受け入れやすかったのであろう。
辞書的な語義に、観光地におけるストーリー作り、イメージ作りが規定される必要はないが、しかし、一方では、その意味の拡張によって観光地のアイデンティティが曖昧になったり、その言葉によって、受け取り側に異なったイメージやメッセージが伝えられたりする可能性も出てくる。戦後の旅行ブームの一時期を支えた「秘境」という言葉も、多面的に使われてきた言葉のひとつであり、「秘境」という言葉を通して、ストーリー作りにおけるキーワード選定の要諦を考えてみたい。
「秘境」ブームを掘り起こした一人といわれる、旅行雑誌の編集者で紀行作家でもあった岡田喜秋は、高度成長期の初期の1960(昭和35)年に、雑誌「旅」に連載したものを「日本の秘境」として出版している。
その本の「あとがき」で「『秘境』のイメージは、時代とともに変わってきた。秘境というと、戦前は、深山幽谷を想像する人が多かったが、戦後は、戦争中に行けなかった地域が、新たな秘境としてクローズアップされた。それは太平洋戦争が終わるまで一般の人の立ち入りを禁止し、写真撮影も出来なかった要塞地帯で、秘境のイメージ は、山岳地帯や奥地だけでなく、岬や入江が新しい旅先となった」として、戦時下の軍事的な理由で立ち入り禁止にされていた所が開放されたことで、「秘境」の観光的な意味合いが拡張されたとし、新しい視点から「日本の秘境」を選定している。
これについて、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀は2014年に「定本 日本の秘境」が再版された際の解説で「たいていの日本人が観光とは有名な『景』を訪ねるものであり、 それがすなわち旅だと考えていた。旅行誌『旅』の編集者岡田喜秋は、旧態依然とした日本人の旅行観にあきれ返ったのではあるまいか」と、岡田喜秋が当時の通り一遍の観光地でないものとして「秘境」を自らの選択眼で見出したと評している。さらに21世紀に入った現在では、「いまや『日本の秘境』は昔がたりの一つである」とし、「一時代の日本の世相があざやかに活写」され、秘境には「しばしば歴史的な『前史』があった。地理よりもむしろ政治がつくり出した秘境」があるともしている。それゆえ、『日本の秘境』を再版する意義があり、紀行文学として優れているのだと池内紀は締めくくっている。
その池内は、2007年の「観光文化184号」に「秘境の発見-福島県・檜枝岐村」という小文を寄せている。「檜枝岐(ひのえまた)村にはきまってアタマに『秘境』がついた。『秘境檜枝岐』である。読みにくい村名とあいまって、なにやら山深い異界の雰囲気をおびていた」とし、「秘境」の条件として、画家で登山家の上田哲農の「一.どちらから入るにしても必ず峠を越えなくてはならない。二.峠を境にして『かつ然とひらけて新しくはじまる風景』がなくてはならない。三.古びてはいるが、がっちりした構造の大きな家が、すくなくとも数軒はたむろしていなければならない。これが欠かせない三条件で、ほかにもあらましきことがある。たとえば『透明な空気のなかのきれいに耕された斜面』である」との説を引用し、檜枝岐はそれを満たしていたとしている。
しかし、一方では最近の檜枝岐について「現在はまるっきりちがう。村域に入ると、まずは『尾瀬の郷交流センター』、体育館、レストランもそなえている。隣り合って森の温泉館『アルザ尾瀬の郷』、ここには温泉プール、また露天風呂もある。さらに木工展示販売部、釣り堀、スキー場、グラウンドとテニス場」が並んでいるとして、その「秘境」の変貌ぶりも指摘している。その上で、「秘境檜枝岐村」の現況から、池内は上田哲農の「秘境とは教えられるものではなくて、その人の心が発見するもの」という言葉を引用し、今日的な「秘境」の意味合いに「なにやら自分の思いにもしめくくりのマルがついたぐあい」だとしている。
つまり「秘境」は辞書的な語義から観光用語として使われるようになると、その意味合いに大きな拡張、あるいは変化があった。「秘境」という言葉は高度成長期を中心に、それなりに観光地のイメージを膨らますものがあったには違いないが、「秘境」の実態が減少し、あるいはなくなってしまい、それぞれの内なる「秘境」を求めた旅となっていったということだろう。
この指摘からすると、「秘境」という言葉は、内的なものを含め、未知なる地としてのイメージを膨らすことができ、ロマンを託しやすい言葉だったかもしない。それゆえ、最近でも「秘境」に密接、隣接する言葉として「桃源郷」「仙境」「アルカディア」「落人の里」「隠れ里」などが、ストーリー作りに広がりと奥深さを感じさせるために使われる例も多い。
では、これらの言葉がなぜイメージを膨らませ、ロマンを託すことができるのだろうか。それは、おそらく、これらの言葉には、言葉自体に長い深い「前史」があるからだろう。それを探るのには柳田国男の「山人考」や「山の人生」が参考になる。
「秘境」の「境」という漢字の字義には「あちら」と「こちら」を仕切る線であり、また、その場所という両義があるとされる。柳田国男は「山地」と「平野」には境があったとし、それは「国つ神の領土と、天つ神の領土との、境を定めることを意味」しているとしている。柳田国男は、「山人考」や「山の人生」のなかでは、この境が大和民族の形成に関わる民族融合の過程とそれに対する民族的な記憶だと、主張している。
これを歴史の書き手となった主流としての平野部の常住者からみた場合、言い伝えとしてあるいは説話としての「大蛇」、「鬼」、「仙人」、「神隠し」、「山の神」などにつながる。つまり、「秘境」が神域として、聖域として意識されたということであろう。また、その結節点となる「山人」には天狗、山男、山姥、などの伝説的な存在や山伏、猟人(マタギなど)などの山に関わる宗教、生業者が実存し、さらには、その境目あたりに平家を含めた武家の落人、貴族の脱落者(貴種伝説)、謀反人、世捨て人など逃げ込んだともいえる人々の存在もあったとしている。
柳田は山岳信仰と縁が深い弘法大師などが、高野山に修験場を開く際に「猟人の手から霊山の地を乞い受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映」しているものだとし、「鬼」についても「鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみ」ではなく「御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方」もあったとしていることや「山人」の中には「耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源の発見と」なったことなど、境目での出来事や言い伝え、説話を全国各地で数多く聞き取り、分析している。つまり「秘境」あるいはこれに類する言葉には、多くの含意があるということなのだ。
それゆえに、本来の言葉の意味や使い方を間違えると、観光地のアイデンティティが曖昧になったり、その言葉よって、受け取り側に異なったイメージやメッセージが伝えられたりする危険性もある。一方では、的確に使用すれば、明確にアイデンティティを伝えることができるし、メッセージ性を高めたり、イメージを膨らせたりすることが可能だ。しかし、残念ながらそうした思慮が不足していると思われる事例も散見される。
例えば、農水省が農村振興のひとつである「棚田に恋」というキャンペーンで、棚田の「秘境度」という指標を使用している。「秘境度」を使用する理由について「全国各地の棚田は、山間部の奥地や離島などに位置する棚田もあれば、都市部に近いところに位置する棚田もあります。特に山間部や離島となるとアクセスが容易ではなく、人目に触れる機会も多くありません。そうしたアクセスが容易ではない棚田に対しても、スポットを当て、足を運んでもらえるよう、『秘境』という興味・関心が増すような言葉で捉えて『秘境度』を設定」したというのである。ここでは、日本において、まだ「秘境」という言葉に誘客価値があるとし、その「秘境度」を人口集中地域からの車での所要時間、「15分」から「1時間30分~2時間」の間を5段階で「秘境度」を決めているのだ。
そこには、岡田や池内のいう、「秘境」に伴う人間の長い営みの前史を無視しているばかりか、そもそも「棚田」が「秘境」なのかという、思慮さえも不足しているとしか思えない。
ストーリー作りを勧めている「日本遺産」のなかで、「日本海の風が生んだ絶景と秘境-幸せを呼ぶ霊獣・麒麟が舞う大地『因幡・但馬』」の「秘境」も、イメージを膨らませる用法になっていない。この地域は魅力的な観光資源が多く、また、歴史的な背景も「日本遺産」とすることに、十分に値すると思うが、この地域をなぜ「秘境」と表現したのか、さらには、加えるのならば「絶景」という、なんらその地域の特徴を描写しない言葉を選んだのか、ストーリーを読んでも理解できない。とくに「秘境」についてはこの地域のどこが「秘境」なのか、なぜ「秘境」なのかの説明も付されていない。
ついでながら、「日本遺産」でもうひとつあげるのなら「日本でもっとも豊かな隠れ里 人吉球磨」である。ここでは「隠れ里」である。この言葉が本当にこの地のアイデンティティを示しているのかということである。このキャッチフレーズは、司馬遼太郎が「街道をゆく」のなかで、この地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と評したとしている。しかし、「街道をゆく」のなかで司馬遼太郎が言いたかったことの本質は、「この球磨川上流の盆地は桃源境とか隠れ里とかいったような地勢」が培った「球磨びとの性根」のことだろう。
球磨川の流れで「農耕文化をきずいたひとびとは、クマといわれた、クマとは山襞の古語」で、その地が「内福」であった「理由のひとつは、幕府に田地をかくしていたからだともいう。人吉盆地の奥には、ちょうど奥座敷や隠れ座敷のような小盆地がいくつかあって、外部からきた巡視役人の目はいくらでもごまかせるのである」と書いている。これを素直に読むならば、球磨川あるいは人吉盆地を囲む山襞に「隠れ里」に適する地形があり、古くから「隠し田」が開発され、それが内福に繋がっているということだろう。この地域の本質を司馬遼太郎は、山襞で営々と築いた自律的な生活圏を守り抜いたという「球磨びとの性根」で「その後の肥後人の気質につながってゆく」ととらえていたということなのではないだろうか。こうした地勢的、歴史的背景を「日本でもっとも豊かな隠れ里」というキャッチフレーズで括るのには、疑問が残るのだ。
さらに「隠れ里」については、司馬遼太郎が「自律的な生活圏」と指す意味を、柳田国男はより深く示唆してくれている。多様な言い伝え、伝説を消化したうえで「諸国の隠里には往々にして 福禄円満の夢幻境から分離して、その畏嚇排他の勢力のみをしたたかに発揮して居るものがなかなか多い」としている。
たとえば、「よく平家の落人などと言うて居る」が、これは「言わば世間並の交際を希望せぬということを強く言い表わした語に外ならぬ」、あるいは「久しい以前の隠田など領主の誅求から免れ、または世話も届かぬ片在所であるために破格の寛典を受け、事実上の安楽郷」だったから隠里と称したのではないかというのだ。
「隠れ里」の表現をキャッチフレーズに使ったりストーリーづくりに埋め込んだりするなら、こうした民俗学や地理学で使われている意味合いも理解したうえで、活用すべきだろう。このことを踏まえれば、人吉にとってのストーリーが「相良700年の歴史が明らかにするのは領主と民衆が心をひとつにした物語」であればあるほど、逆にこのような「隠れ里」の使い方は、地域の本質を伝えきっていないのではないかと思ってしまう。
これらの事例に対し、十分に吟味、あるいは、実態に即したストーリーを作り上げているところもある。
旅行会社のツアー募集では必ず「秘境」という形容がされる「知床半島」だが、ここを管内とする斜里町も羅臼町および観光協会、そして知床自然センターなどのホームページでは、「秘境」という言葉を見事なほど使用していない。昭和30、40年代の観光協会やバスツアーでは「秘境」という言葉も踊っていたが、世界自然遺産への登録以降は、「生態系『流氷がはぐくむ、海から山への命の輪』」「生物多様性『いのちの豊かさ。希少な動植物』」のテーマに沿った表現で、知床半島の価値を訴えている。
また、山形県南部に位置する置賜地方といわれる長井市、南陽市、白鷹町、飯豊町の2市2町、が共同して運営するDMO「やまがたアルカディア観光局」は、アルカディア(桃源郷)をキャッチフレーズとして使用しているが、ホームページやパンフレットでその背景となった英国人探検家イザベラ・バードの「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。『鍬で耕したというより鉛筆で描いたように』美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子(ナス)、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り胖(ゆたか)に微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」という描写を丁寧に紹介し、置賜地方の実態に照らし合せながらイメージ作りに努めている。
これらの事例を見れば、いかにストーリー作りを行う時に、ことにキーワード、キャッチフレーズの選択にあたり、十分な吟味が必要だということがわかる。ふわっ、としたイメージであったり、著名人の言葉の切り取りであったりするのではなく、実態に合わせ、アイデンティティを明確にして、ストーリー作りや言葉選びをするべきだろう。
「秘境」という言葉は、かつては日本の観光の大衆化のなかで、イメージ作りに大いに役立った面はあるが、すでに時代が求めなくなった言葉なのであろう。しかし、一方では、「秘境」に密接する、隣接する言葉のなかには、歴史性を踏まえて丁寧な使い方をすれば、新しい観光需要を喚起する力のある言葉のような気もしている。
引用・参考文献
- *岡田喜秋「定本 日本の秘境」(ヤマケイ文庫)山と渓谷社
- *池内紀「観光文化 184号 あの町この町 第22回」日本交通公社
- *柳田国男「山の人生」「山の人生」kindle版
- *司馬遼太郎「街道をゆく3陸奥のみち、肥薩のみち」(朝日文庫)朝日新聞出版社
- *柳田 国男「神隠し・隠れ里」(角川学芸出版) Kindle 版.
- *イザベラ・バード「日本奥地紀行」(高梨健吉訳)平凡社ライブラリー
- *平井純子「黎明期の知床観光̶観光関連資料からみた知床の観光地化と観光拠点の変遷」
- *知床自然センター