[Vol.37]大和路の静寂を楽しむ 秋篠寺・慈光院を訪ねて

 大和路には東大寺、法隆寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺など、歴史を積み重ねてきた数多の大寺があり、こうした大寺でじっくり建築技術の粋を集めた建造物や天平文化を反映した仏像群と向き合うのは、大変興味深く面白い。しかし一方では、平城京遷都以後の大和国の国情に見合う、ひっそりとした小さな構えの寺院群も数多くあり、大和路の静寂に浸ることができる。なかでも静寂を楽しむのに格好の寺として、平城京の郊外、秋篠の里にある秋篠寺と茶道石州流の本拠地となっている慈光院を挙げることができるだろう。両寺を私なりの視点から紹介してみたい。


〇秋篠寺

 秋篠寺は近鉄西大寺駅から北西に約1.2㎞、秋篠の里にある。秋篠の里は、平城京の街区の範囲からはずれており、当時より郊外の鄙びた里だったのだろう。いわんや平安京への遷都後は、さらに静かな鄙の里だったのは間違いない。

 それは、1791(寛政3)年に刊行された『大和名所図会』には、月を掲げる生駒山を背景に茅葺きの貧しい農家の衣打つ3人の農婦が描かれている挿絵とともに「長き夜のいこ満お路し(生駒おろし)や寒からむ 秋篠の里に衣打つ也」と蕉門の俳人野澤凡兆の「秋篠の庄屋さへなき村時雨」の句が書き添えられており、寂びた里の雰囲気が出ていることからも分かる。現在では、都市郊外の住宅地が田園風景を崩しながら迫ってはきているものの、それでもこんもりとした雑木林のなか、周囲から隔絶されたように秋篠寺はある。

秋篠の里「大日本名所図会第1輯第3編 大和名所図会」

 この寺の創建については諸説ある。当地を支配していた秋篠氏の氏寺だったという説もそのひとつだが、寺伝では光仁天皇の勅願により780(宝亀11)年頃に、南都六宗の法相宗六祖といわれる善珠が開き、造営は奈良時代最後の官寺として次の桓武天皇の代まで続いたとしている。「続日本紀」の780(宝亀11)年6月の条には「封百戸永施秋篠寺。其權入食封。限立令條。」と封戸百戸が施入されていることが記されているので、創建はそれ以前に行われていたのは間違いないと思われている。

 境内に南門あるいは、駐車場近くの東門から入ると、雑木林の中には苔むした前庭が広がり、木洩れ日が苔の緑に微妙な色の変化を付ける。この光景を五木寛之は「その美しさに息をのむ思いがした。さきほどからの雨に濡れて水分をたっぷり吸っているだけに、苔の緑がいきいきとしていて、まるで〝 苔の海〟だ」と絶賛している。その空気感に浸っていると時間を忘れてしまうほど、外の近代的で狭苦しい住宅地から隔絶された結界的な役割を果たしている。

秋篠寺 前庭

 前庭を巡って、奥の受付からさらに奥に入ると、左手に大元堂、正面奥に本堂が建つ。本堂は1135(保延元)年の兵火で堂宇が焼亡し、大修復された講堂だったといわれ、基壇上に立つ正面5間、側面4間、単層、寄棟造、本瓦葺の建物で国宝に指定されている。天平の余韻があるものの、細部手法には鎌倉時代の様式を示し、簡素ながらバランスよく腰が坐り、伸びやかな大屋根も印象的である。焼失した金堂跡は、現本堂の南のうっそうとした木立の中にあり、また塔跡も南門を入った茂みの中に残っている。本堂内には、本尊の薬師三尊像、伎芸天立像、帝釈天立像などの天平期から鎌倉期の仏像が安置されている。

 なお、本堂左手の大元堂内には鎮護国家修法の本尊の大元帥明王が収蔵されているが、秘仏のため特別公開の時にしか直接は拝めない。

秋篠寺 大元堂と本堂

 本堂内に安置された本尊の薬師如来像や両脇侍の日光、月光の菩薩像は、もともと一具のものではなかったらしく、中尊薬師像が寄木造の素木像で藤原時代であるのに対し、両脇侍は彩色像で平安初期の作と思われるが、時代は異なるにもかかわらず、三尊としての統合性は損なわれていない。また、帝釈天立像は、天平の乾漆の頭部に鎌倉の木造の体躯を補作したもので、一対の梵天像の首の心木に「応永二(1289)年七月」の修理銘があるので、そのときに体躯が作られたとみられている。

 これらの仏像も秀逸なものだが、ここでは何といっても伎芸天立像が魅力的だ。本堂内の左端に立ち、頭部は天平末期の乾漆で、体躯が鎌倉時代の木彫彩色像であるのに、少しも不自然さを感じさせず、みごとな調和を見せている。首をややかしげ、静かな笑みをたたえる表情や豊満な姿態に心ひかれる人が多い。帝釈天立像同様、天平の乾漆の頭部に鎌倉の木造の体躯を繋ぎ合わせたものではあるが、その一体性は見事だ。伎芸天は天界に住む仏教の守護神で、帝釈天などと同類に位置付けられ、芸能の神とも言われている。

 五木寛之は「左端に立つ優美な像。謎めいたほほえみを浮かべている顔。それが伎芸天だった・・・中略・・・かすかに首をかしげたような感じがする。流し目、と言っては失礼かもしれないが、こちらのほうへ視線を向けているような、向けていないような、なんともいえない表情をしていらっしゃる。どうしても気になってしかたがない」と、その魅力を語っている。さらに五木は小説「風立ちぬ」で知られる堀辰雄が「ミュウズ」(ミューズ:ギリシャ神話で知的活動を司る女神)とまで呼んだことを紹介している。その堀辰雄は「このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼やけになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。・・・・・・」と描写している。

 これらの印象については、横田健一の「白鳳天平芸術精神史研究序説」では「秋篠寺の技芸天頭部、梵天像頭部も、天平後期の美しい像として有名である。これらも、下顎の張りとくびれの線、眼下側のふくらみの減退、ふし眼など暗さ、憂愁性をつくり出す要素である」と白鳳の豊満で明るい作風から、徐々に憂愁感が表出する天平後期の造仏という時代性に関わっているとも指摘している。

 ただ、このような魅惑的な伎芸天立像が、なぜ秋篠寺にあるのかということになると、そもそもこの仏像が伎芸天かどうかも確定できていないため、よくわかっていないようだ。それゆえに、この仏像と対面していると、ますます、その奥深い憂愁を孕みながら蠱惑的ともいわれる、表情や姿態にひきつけられていく。本尊の薬師三尊、帝釈天ともども、静かにゆっくりと鑑賞したいものだ。


〇慈光院

 奈良盆地の西側を南流する富雄川(とみおがわ)右岸の小丘にある。大和郡山から斑鳩に向かう道で富雄川を渡ったところの右手の小路に入る。そこが参道だが、すでにここから演出が凝らされている。高い生垣のある石畳の道で、吸い込まれるように境内に導かれ、一之門から茨木門に続く道では切り立った土手と繁茂した木立が暗がりを作り、あられ石の道を折れ曲がることで先行きへの期待を膨らませる。そして、境内や庭園に入った途端、明るさと広がりをより強く感じさせ、茅葺農家風の書院が現われ茶室に誘う仕掛けになっている。

慈光院 一之門と茨木門

慈光院 書院

 このように凝った演出になっているのは、ここが1663(寛文3)年に、石州流茶道の祖である小泉藩主片桐貞昌が父貞隆の菩提を弔うため建立したことと、現在もその宗家機能を有していることに起因しているのだろう。

 この片桐貞昌は、豊臣家の直参家臣であった片桐且元の甥にあたる。片桐且元は、豊臣秀吉が柴田勝家と覇権を争い、織田信長亡き後の権力掌握を決定付けた1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦で奮戦し、加藤清正・福島正則などともに「賤ケ岳の七本槍」の称され、後には豊臣政権の一翼を担ったことで知られている。秀吉の死後、片桐且元は一貫して家康との融和策を執ろうとした。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは西軍側に付いたものの、敗戦後は再び徳川家康に接近し、家康と秀頼の関係融和に尽力した。しかし、1614(慶長19)年の方広寺鐘銘事件を契機に徳川方に組みするようになった。

 このため片桐且元は徳川方から大和龍田など4万石の所領が与えられた。片桐且元と行動をともにした弟で、貞昌の父となる貞隆も大和国小泉藩(現・大和郡山市小泉町付近)1万石の初代藩主にとり立てられた。

 そして、貞隆の長子にあたる貞昌が1627(寛永4)年に小泉藩2代目藩主となった。貞昌は「寛政重脩諸家譜」によると、1633(寛永10)年には知恩院の講堂再建に携わり、1642(同19)年からは関東の郡奉行を務め、1650(慶安3)年には「伊勢美濃兩國におもむき、水損の地を検し、のちまた藤(富士)川天龍の兩川にいたり、破損にをよびし堤を監す。萬治三(1660)年十月三日東海道五畿内、洪水のために破壊せし所を巡回す」とあるので、幕府内で作事方、あるいは土木工事の責任者の役割を果たし、造庭などにも造詣が深かったといわれている。

 一方で、同書では「寛文五(1665)年十一月八日貞昌茶道の宗匠たるよし聞しめされ、御所望により、御数寄屋にをいて點茶をたてまつり、かつ御物の茶器を鑒(鑑)定す」とあり、将軍徳川家綱の前で茶道のお点前を披露し、茶道指南役でもあったという。

 貞昌の茶道の師匠は、同じ武士茶人であった桑山宗仙であったとされ、この宗仙は、千利休の長子千道安から学んだということであるから、利休の茶風の流れを汲んでいると言えよう。これを淵源に、貞昌が石見守であったので茶道の一派石州流と称され、大名流の流派として流儀は受け継がれ大いに発展した。現在は16代目となっている。

 石州流はこのような成立の経緯から、武家を中心にした茶道流派であるため、書院建築が重要な役割を果たし、茶会が書院などで行われるようになったこともあり、茶道具などを置く棚、台子の飾り方も伝法とされ、それが書院のレイアウトにも影響を与えている。

 慈光院では、書院が極めて重要な位置になっている。参道から入っての最初の主屋が書院となり、仏像などが安置されている本堂(方丈)は、書院と中庭を挟んだ裏手に配置されている。参道から圧倒的な植栽にうずもれる様にもみえる茅葺き屋根の書院は、十三畳の主室ほか数室からなり、主室の東と南に広縁があり、眺望が大きく開け、主庭と大和盆地、春日山の借景が見事な景観を創り出している。

 この書院は、片桐石州(貞昌)が「石州侘びの文」で述べている理念をそのままあらわしていると言ってよいのだろう。その「石州侘びの文」では「侘び」や「茶道」のあり様について「炭斗ふくべにて大方知るべし。あばら成る民家の垣根又は埴生の軒にさがりて、天然と侘びたる姿を生れ得たる者也。彼の顔淵が一瓢の侘びたる例しにぞひとしけれ。おのれ様々に形をなし色々とさびを出す、是生得のさび者にて人作の及ばぬ所也。・・・中略・・・器物を愛し風情を好むは形を樂しむ數寄者なり。誠の數寄者とは云はれまじ(異本:心を樂しむ數寄者こそ誠の數寄者とは云ふべけれ)譬へ千貫萬貫の道具たりとも炭斗ふくべ一つ程の數寄の本意は叶ふまじ」としている。「石州侘びの文」のこのくだりについて嶋内麻佐子は、片桐石州(貞昌)が侘びの本質を利休好みの瓢箪に見立て、「自然な侘びの風情は、作意を加えず、自然と姿が出来上がってゆくものである。民家のあばら垣根や植生の軒にさがって、侘びた姿を生まれつき持っているものである。つまり人作の及ばない数寄の本意を見出すことが侘びの基本である。どんな立派な茶室や道具と比較しても、ふくべの炭取りの味わいほど、数寄と呼ぶにふさわしい道具はない。本物の数寄者とは、形や高価なものにこだわるのではなく、心を楽しむことが出来る人。これが、本物の数寄者である」と、「侘び」や「茶道」への向き合い方を解していたと、紹介している。

 主庭の東側は低い植込みにして大和盆地の雄大な借景を取り入れ、南側には石組は用いず、白砂を前にしてツツジなど約70種からなる大刈込を配し、西側に向かい高みがあって築山の代わりをしている。

茶室高林庵

 書院の東北隅には茶室高林庵(こうりんあん)があり、書院西北隅、柿葺の別棟に三畳台目の閑(かん)茶室がある。高林庵は台目畳(だいめだたみ 普通の畳の約4分の3の大きさ)で、狭小な茶室であるため、別に二畳の控えの間が設けられ、襖を外して四畳台目で使ったり、懐石の配膳場所にしたりしていたという。 点前座の付近(茶を点てる亭主が座る側の横または後ろ)に床の間がある「亭主床」を採用していることでも知られる。この茶室は1671(寛文11)年に書院の東北隅に建て増しされ、その後、建て増しの位置をずらして移築されたという説もある。

 また、書院西北隅、閑茶室は三畳台目の茶室で躙り口が無く、亭主も廊下の貴人口から入り、亭主の左側に客が坐る逆勝手となっている。本勝手では、客は右側に坐るので、逆勝手の場合、お点前の一部の方法が逆になる。「高林庵茶室」よりも陰翳が強い造りになっているおり、二つの茶室が書院の主室の両端に対の形で陰陽を表わしているともいわれている。

 裏手の本堂(方丈)については、創建当初の建物は江戸中期に焼失しているが、史料を手がかりに1984(昭和59)年に再建されている。書院、茶室、本堂(方丈)が庭を囲むように廊下でつながり、植栽や石が配された庭や外壁の造りが繊細な心配りがされており、この廊下のどの地点に立っても、心の落ち着きを得る景色が作られている。

慈光院 書院から本堂までの廊下の窓と本堂から見える書院

 拝観客が訪れると、十三畳の主室と隣接する部屋の襖を取り払い、抹茶がふるまわれる。ここから主庭と雄大な借景を眺めていると、片桐石州(貞昌)の侘びや茶道に対する思いである「さびたるは吉、さばしたるは悪敷」(自然の寂びたるものは良いが、意図した寂びは悪である「宗関公自筆案詞」)や「分相応の茶の湯」(「石州三百箇条」)の世界を茶道の素人にも感覚的ではあるが感得できたような気にさせてくれる。

 ただ、現在、この借景の東側は都市開発が進み、その景観の劣化が課題となっている。この状況に対し、慈光院自らが東面の約3000坪に盛土を行い、数百本の植樹を行うなど景観・環境保全に努めており、石州の思想が脈々と続いていることも高く評価し付け加えておきたい。

 

引用・参考文献

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筆者

典然

観光関係の調査研究機関をリタイヤして、気儘に日本中を旅するtourist。
「典然」視線で、折々の、所々の日本の佇まいを切り取り、カメラに収めることがライフワーク。「佇まい」という言葉が表す、単に建物や風景だけではない人間の暮らしや生業、そして、人びとの生き方を見つめている。

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