熊野那智大社
熊野三山 内の資源
熊野那智大社は、熊野速玉大社から南西に約22km、JR紀伊本線那智駅から北西に約8km、那智山の中腹、標高500mの地点にある。熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一社に数えられる当社は、463段の石段を登った先の社殿6棟に、熊野夫須美大神(イザナミノミコト)を主祭神として合計十三所の神々が祀られている。
那智の名が文献に現れるのは新しく、初見は『扶桑略記』 1082(永保2)年の記事であり、本宮・新宮・那智の三山が一体化する時期になって、那智の名が初めて登場する。古くは「那智山熊野権現」「那智権現」などと呼ばれ、元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられている。仁徳天皇五年(317年)に現在地に遷された。さらに平安時代には平重盛が造営奉行となって社殿を整え、やがて織田信長の焼き討ちにあったのを豊臣秀吉が再興し、江戸時代に入って将軍吉宗の力で亨保・嘉永の大改修が行われたとされる。
また、熊野那智大社には青岸渡寺が隣接して建っており、熊野三山のなかで最も神仏習合時代の名残を残す熊野信仰の聖地でもある。青岸渡寺は1868年の神仏分離令以前までは、那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展してきたもので、現在の位置関係からも神仏習合の形態をよく伺うことができる。なお、境内右手にある樹齢500年余の大楠は、平重盛の手植えによるものと伝えられ、根元の空洞で胎内くぐりができる。
那智の名が文献に現れるのは新しく、初見は『扶桑略記』 1082(永保2)年の記事であり、本宮・新宮・那智の三山が一体化する時期になって、那智の名が初めて登場する。古くは「那智山熊野権現」「那智権現」などと呼ばれ、元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられている。仁徳天皇五年(317年)に現在地に遷された。さらに平安時代には平重盛が造営奉行となって社殿を整え、やがて織田信長の焼き討ちにあったのを豊臣秀吉が再興し、江戸時代に入って将軍吉宗の力で亨保・嘉永の大改修が行われたとされる。
また、熊野那智大社には青岸渡寺が隣接して建っており、熊野三山のなかで最も神仏習合時代の名残を残す熊野信仰の聖地でもある。青岸渡寺は1868年の神仏分離令以前までは、那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展してきたもので、現在の位置関係からも神仏習合の形態をよく伺うことができる。なお、境内右手にある樹齢500年余の大楠は、平重盛の手植えによるものと伝えられ、根元の空洞で胎内くぐりができる。

みどころ
那智山の麓から熊野那智大社へは、「大門坂」をぜひ上りたい。大門坂は熊野古道「中辺路」の一部であり、熊野那智大社の旧参道である。高樹齢の杉木立に囲まれ、苔むした石段はかつての熊野古道の面影を色濃く感じられる。石段の距離は約1.3km・約40分と熊野古道歩きとしても手軽なコースとなっている。
関連リンク | 熊野那智大社(WEBサイト) |
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参考文献 |
熊野那智大社(WEBサイト) 和歌山県公式観光サイト(公益社団法人 和歌山県観光連盟)(WEBサイト) 熊野三山協議会(WEBサイト) 熊野那智大社々務所『那智に詣でて』 |
2025年02月現在
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