熊野三山くまのさんざん

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺を総称して熊野三山と呼ぶ。修験道の拠点である「吉野・大峰」と真言密教の根本道場の「高野山」が参詣道で結ばれ、この三霊場を取り巻く一帯が、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」*1として2004年7月に登録された。紀伊半島南部一帯を指す「熊野」の語源は「こもりく(隠国)」 であるという。 「こもりく」には、死者の霊魂がこもる 「根の国」のイメージが漂うが、これには死後に魂は山に向かうとする「山中他界観」が根底にある。和歌山県から奈良・三重県に跨る熊野一帯は、南面が太平洋に面し山々が折り重なる酸険の地である。時に豊穣をもたらし時に災害をもたらす熊野の深い自然を敬い畏れる感情は、神と人との繋がり、あの世とこの世の繋がりの上に生活が成り立ち、それを媒介するのが山の神であるとする世界観を育んできた。熊野が国内有数の修験道場となり霊場となった背景には、日本人固有の自然崇拝がある。
 その熊野において熊野三山あるいは熊野三所権現と呼ばれるようになったのは、平安時代後期(11世紀後半)とされる。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺の三社一寺は、各々異なる成因で成立していたが、次第に互いの祭神を合祀するようになっていった。12世紀になると熊野の神々が本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって説明されるようになった。主神である三所権現の本地仏は、本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智は千手観音とし、家津御子神(けつみこがみ)・速玉神・結神(むすぶのかみ)は本地がそれぞれ仮の姿をとって現れたものと考えられている。阿弥陀仏は極楽浄土の中心にある仏なので、本宮が西方浄土とみなされ、那智は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の住む補陀落浄土、新宮は薬師如来の東方瑠璃浄土とみなされるようになった。こうして熊野の主神が浄土思想によって説明されるようになると、熊野全体が広義の浄土に見立てられ、熊野三所権現と熊野三山の他の神々を合わせた熊野十二所権現が確立していった。平安時代後期になり、都の貴族や上皇・女院による三山への参詣*2が活発化し、中世から近世へかけては地方の有力者や庶民が主になり、やがて伊勢参りや西国三十三所の巡拝と結びついていく。
 しかし、江戸時代になると、熊野三山は紀州藩の宗教政策のもと神道化され、それまで熊野信仰普及に多大なる貢献を果たしてきた熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動が抑圧された。その結果、熊野信仰は衰微していく。明治元年(1868年)の神仏分離令により熊野信仰の衰退は決定的なものとなる。本地垂迹思想により仏教と運然一体となっていた熊野信仰にとって、国家の神道国教化政策は大きなダメージとなった。これにより熊野の参詣者は大きく減少したといわれる。
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みどころ

熊野三山は、和歌山県の南東部にそれぞれ20~40kmの距離を隔てて位置しており、熊野古道「中辺路」によって結ばれている。中辺路はハイキングコースとして整備されており、脚力や旅行日数に合わせて出発地点やゴールを柔軟に選択することができる。幾重にも峰が重なった紀伊山地の深い森に抱かれながら歩いていると、熊野三山が自然崇拝に起源を持つ理由が肌で感じられるから不思議だ。
 また、皇族たちが熊野本宮大社と熊野速玉大社を巡拝する際に利用した川舟で熊野川を下るのも一興。道の駅「瀞峡街道 熊野川」から乗船し、語り部による熊野の歴史物語に耳を傾けながら、熊野速玉大社近くの権現河原まで約90分間の舟下りを楽しめる。
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補足情報

*1 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」:神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院「青岸渡寺」と「補陀洛山寺」の二寺も熊野那智大社とともに登録されている。青岸渡寺は西国三十三所霊場の第一番札所として、補陀洛山寺は補陀落渡海信仰で知られた寺院である。
*2 上皇・女院による三山への参詣:白河上皇は9回、後鳥羽上皇は21回、後白河法皇に至っては29回に及ぶ参詣を行ったといわれる(回数については諸説あり)。
関連リンク 田辺市熊野ツーリズムビューロー(WEBサイト)
参考文献 田辺市熊野ツーリズムビューロー(WEBサイト)
新宮市観光協会(WEBサイト)

2025年02月現在

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