奥之院おくのいん

高野山奥之院は、高野山の山上東端に位置し、弘法大師・空海の御廟と、その参道の入口である一の橋から東へ広がる一帯を指す。一の橋から廟前までの約2kmの参道には、杉や檜がうっそうと茂り、両側には20万基を超える墓石*1が並んでいる。大きいものは高さ10mにも達する江戸時代各大名の巨大な五輪塔で、ほかにも位牌、方柱、宝篋印塔、無縫塔などさまざまな墓石があり、その間には古今の歌碑、句碑が立っている。ここでは天皇家や皇族、法然や親鸞といった大宗教家、キリスト教信者、そして市井に生きた人々など、誰もが弘法大師・空海の前において平等となり、静かに眠っている。
 奥之院の歴史は古く、平安時代の弘仁年間に空海が開いたとされている。当初は、奥之院は高野山金剛峯寺の中でも重要な役割を果たしていたが、戦国時代になると、金剛峯寺の衰退に伴い奥之院も荒廃してしまった。江戸時代になると、奥之院は再び復興の機運が高まり、多くの信仰深い人々が修行に訪れた。また、江戸時代中期には、当時の山科言継が奥之院を再興し、現在の姿に整備した。明治時代になると、廃仏毀釈の風潮が強まり、奥之院も一時期閉鎖されてしまった。しかし、大正時代になってから再び復興の機運が高まり、多くの人々が奥之院を再興するために奔走した。昭和初期には、奥之院再興のために、多くの寄付が集められ、奥之院が再建された。現在でも、奥之院は真言密教の修行僧の修行場として栄えている。
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みどころ

奥之院の聖地は一の橋から始まる。見上げれば天高くそびえる老杉が、左右を見渡せば圧倒的な規模の供養塔と墓石群が広がっている。おもな石塔には標札が立ててあり、参道を進みながら日本の歴史をたどることができる。墓石や碑をみながら御廟橋に至ると、玉川のほとりに立つ水向地蔵に迎えられる。玉川は水行場でもあり、僧や白装束の信者らが冷水に浸かって経を唱える光景も見られる。そして結界である御廟橋*2を渡れば、大師信仰の中心地であり、張り詰めた空気が支配する聖域の中枢へと踏み込んでゆく。石段を上った先には、無数の燈籠が輝き、幻想的な雰囲気がただよう燈籠堂に至る。燈籠の数は数万基にも上るといい、正面には「弘法」の諡号額が、さらに両側には真然大徳、祈親上人と十大弟子、12名の肖像が燈籠の光に包まれている。燈籠堂のさらに奥には、弘法大師・空海が入定した石窟の上に建てられた御廟が静謐かつ神々しい空気に包まれている。一の橋から御廟までの道のりは聖地への歩みにほかならず、ぜひ正式なルートで参拝したい。たとえこの地が初めての訪問であっても、自らの心身が浄められていく様を感じずにはいられないだろう。
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補足情報

*1 墓石:奥之院には、数々の有名武将の供養塔が立ち並んでおり、高野山を焼き討ちにしようとした織田信長の墓から、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、伊達政宗の墓まで、敵味方や宗派を超えてこの地に集まっている。武将以外にも高麗の役の戦死者を弔う供養塔、浄土宗開祖・法然の供養塔、浄土真宗開祖・親識の霊屋などがあり、何者をも大らかに受け入れる真密教の思想と弘法大師空海への信仰がいまも静かに息づいている。
*2 御廟橋:いまも奥の院で生き続けているとされる弘法大師・空海には、午前6時と10時半の日に2回の食事「生身供」が捧げられている。御供所でつくられた生身供が唐櫃に納められ、御廟橋を渡って灯籠堂へと運ばれていく。
関連リンク 高野山真言宗 総本山金剛峯寺(WEBサイト)
参考文献 高野山真言宗 総本山金剛峯寺(WEBサイト)
和歌山県公式観光サイト(公益社団法人 和歌山県観光連盟)(WEBサイト)
和歌山歴史物語100(WEBサイト)
「高野山を知る一〇八のキーワード」高野山インサイトガイド制作委員会
JTBの新日本ガイド17 南紀 伊勢 志摩

2025年02月現在

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