青岸渡寺
青岸渡寺はJR紀伊本線那智駅から北西に約9km、那智山の中腹に熊野那智大社と並ぶ天台宗の寺院であり、西国三十三所第一番の札所である。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」*1として2004年7月に登録された。
仁徳天皇のころ、インドから熊野に流れついた裸形上人が、那智の滝壷から見つけた観音像を安置して草堂を開いたのがその創始とも伝えられる。青岸渡寺は如意輪観音を本尊とするので、古くより那智山如意輪堂と称し、平安時代以降は修験行者の道場として熊野山伏の本拠地でもあった。神仏習合思想が起こってからは、熊野信仰とともに観音信仰が全国に広まり、西国三十三所第一番札所として隆盛を極めた。最盛時は7ヵ寺36坊を有していたという。しかし、明治の神仏分離で1874(明治7)年以後、青岸渡寺と称するようになった。本堂は熊野那智大社に隣接し、大社の東門からも境内に入ることができる。本堂は1587(天正15)年に豊臣秀吉によって再建されたものである。
本堂から階段を下り、那智滝の方向へ向かうと三重塔が見えてくる。1972(昭和47)年に300年ぶりに再建された朱塗の三重塔は、高さ25m、各層とも格天井で飾られており、本尊の千手観音菩薩をはじめ、阿弥陀如来・不動明王像などを祭っている。また、2023(令和5)年10月に、修験道の開祖役行者を祀る那智山行者堂が150年ぶりに再興された。
仁徳天皇のころ、インドから熊野に流れついた裸形上人が、那智の滝壷から見つけた観音像を安置して草堂を開いたのがその創始とも伝えられる。青岸渡寺は如意輪観音を本尊とするので、古くより那智山如意輪堂と称し、平安時代以降は修験行者の道場として熊野山伏の本拠地でもあった。神仏習合思想が起こってからは、熊野信仰とともに観音信仰が全国に広まり、西国三十三所第一番札所として隆盛を極めた。最盛時は7ヵ寺36坊を有していたという。しかし、明治の神仏分離で1874(明治7)年以後、青岸渡寺と称するようになった。本堂は熊野那智大社に隣接し、大社の東門からも境内に入ることができる。本堂は1587(天正15)年に豊臣秀吉によって再建されたものである。
本堂から階段を下り、那智滝の方向へ向かうと三重塔が見えてくる。1972(昭和47)年に300年ぶりに再建された朱塗の三重塔は、高さ25m、各層とも格天井で飾られており、本尊の千手観音菩薩をはじめ、阿弥陀如来・不動明王像などを祭っている。また、2023(令和5)年10月に、修験道の開祖役行者を祀る那智山行者堂が150年ぶりに再興された。

みどころ
本堂正面軒先に吊り下げられた鰐口は、豊臣秀吉の命により本堂(如意輪堂)が再建された際、豊臣秀吉より寄進された日本一の大鰐口で、直径1.4m、重量450kgもあり、鰐口にはその再興の趣旨が刻まれている。また、本堂の脇には樹齢約700年のタブノキ(イヌグス)の大木が茂っている。本堂の東側にある鐘楼には、1324年建造の梵鐘がかかっており、鐘楼の脇には1322(元亨2年)の造立銘が台石に刻まれた宝篋印塔が立っている。熊野地方最古の建造物である本堂とあわせて現存する往時の姿から歴史を感じられる。三重塔の3層には展望所があり、ここから見る那智滝は那智原始林や周囲の緑と調和して見事。

補足情報
*1 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」:神仏習合の過程で熊野那智大社と密接な関係を持つようになった寺院「青岸渡寺」と「補陀洛山寺」の二寺が熊野那智大社とともに登録されている。補陀洛山寺は青岸渡寺と同様に開基伝承を持つ寺院で、熊野那智大社の主祭神の本地仏である千手観音を本尊とし、また、古来熊野三所権現を祀る「浜の宮」と隣接するもので、神仏習合の形態を示している。
関連リンク | 那智山青岸渡寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
那智山青岸渡寺(WEBサイト) 西国三十三所札所会(WEBサイト) 日本風景街道 熊野 ~シーニックバイウェイ紀南(WEBサイト) 熊野三山協議会(WEBサイト) 和歌山県高等学校社会科研究協会『和歌山県の歴史散歩』 |
2025年02月現在
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