吉野山寺社群よしのやまじしゃぐん

奈良県南部、大峰山脈の北端、南北に約8km続く尾根が吉野山である。一帯には、修験道の根本道場である金峯山寺を中心に多くの社寺がある。
 吉野山から山上ヶ岳(大峰山)までの大峰山脈北部の山々は、古くから金峯山(きんぷせん)と呼ばれ、神聖視されていた。伝承によれば、7世紀後半、役行者*1が金峯山で修行中に金剛蔵王権現を感得、その姿をサクラの木に刻んで、山上(山上ヶ岳)と山下(吉野山)に堂を建てて祀った。この山上の蔵王堂が現在の大峯山寺本堂、山下の堂は現在の金峯山寺蔵王堂である。平安時代前期には聖宝*2が中興し、修験霊場として発展。吉野山を経て山上へ参る金峯山詣(御嶽詣)は都の貴族*3の間で流行し、当時の文学*4にも記されている。中世にはますます隆盛し、その力を頼って、兄源頼朝に追われた義経はこの地に一時身を寄せ、南北朝時代には南朝の本拠地*5となった。
 近世も栄えたが、明治時代になると神仏分離令により修験道は廃止。金峯山寺は神社になって廃絶を免れた。1886(明治19)年に至り、寺院に復帰できたが、山上蔵王堂は大峯山寺として金峯山寺から分離され、現在に至っている。
 このような歴史的な背景から、吉野山には修験道や南朝に関係する寺社、史跡が多数ある。麓には吉野神宮*6、下千本(しもせんぼん)には弘願寺、中千本には金峯山寺や吉水神社、東南院、如意輪寺など。上千本には櫻本坊*7、竹林院、吉野水分(みくまり)神社などが、奥千本には金峯神社がある。また、金峯山寺境内には南朝の皇居跡の吉野朝宮跡、如意輪寺の裏手には後醍醐天皇陵、奥千本には西行庵8*がある。
 吉野山はサクラの名所としても知られ、4月上旬から中旬にかけて、標高順に下千本から奥千本へと開花する。当地のサクラは古くから知られ、平安時代から多くの歌*9に詠まれ、豊臣秀吉は盛大な花見を楽しんでいる。
 吉野山へは、近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウェイに乗り、約3分の吉野山駅下車。同駅前から奥千本行きのバスが運行している。ただし、ロープウェイ・バスともに時期によって運行日や運行区間が異なるので注意が必要。また、吉野山の道路は狭隘で駐車場が少なく、サクラや紅葉のシーズンには交通規制が行われるので、車で訪れる場合も要注意。
#

みどころ

ロープウェイ吉野山駅から、吉野山の尾根筋に道が続いている。ずっと上り坂になるが、左右には金峯山寺をはじめとする社寺や史跡があり、拝観・見学しながら、ゆっくり歩いていきたい。金峯山寺の最大のみどころは、蔵王堂に安置される3体の巨大な金剛蔵王権現立像。ただし普段は公開されていないので、特別開帳期間に合わせて訪れ、大迫力の憤怒の巨像を間近で拝観したい。このほかの社寺も長い歴史があるだけに、優れた仏像や寺宝・社宝に出合える。また南朝や西行、源義経、松尾芭蕉にまつわる史跡も多く、歴史好きにはたまらない。竹林院からはバスでいったん奥千本口まで登り、金峯神社から歩いて下り、吉野水分神社や花矢倉展望台に立ち寄るといい。展望台からは吉野山を一望でき、尾根上にそびえる蔵王堂の大屋根も見える。ここからの眺望は素晴らしく、また吉野はともすればサクラの名所とばかり喧伝されるが、新緑や紅葉に包まれる時期も味わい深い。
#

補足情報

*1 役行者:7世紀後半の呪術者で修験道の開祖とされる。名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。金峯山を開いたとされるほか、全国各地に開山伝説を残す。その実在については諸説あるが、8世紀末に成立した勅撰史書「続日本紀」の文武天皇3(699)年の項に「初メ葛木(城)山ニ住テ咒術ヲ以テ称セラル。外従五位下韓國連(カラクニノムラジ)廣足師トス。後其能ヲ害シ、讒(そ・おとしいれる)スルニ妖惑ヲ以テス。遠處ニ配ス」と記載されている。9世紀初期の説話集「日本霊異記」には葛城山の一言主神が朝廷に「役優婆塞朝家(朝廷)ヲ傾ケ奉ランコトヲ謀ル」と告げ口をして、伊豆に遠島となった記されている。大陸伝来の新しい思想や呪術を取り入れたことが、誣告につながったということが窺える説話である。
*2 聖宝:832(天長9)~909(延喜9)年。平安時代の真言宗の僧。醍醐寺の開祖でもある。三論、法相、華厳、密教を学び、役行者を崇敬し、修験道の体系化、組織化を図った。
*3 貴族:藤原道長の日記「御堂関白記」には、1007(寛弘4)年8月2日に金峯山に参拝のため京を出立し、同月11日に経筒などを奉納し埋めたことが記録されている。この時に奉納されたとみられる寛弘4年銘の経筒などが山上ヶ岳の頂上より発見されたと伝わる。
*4 文学:「源氏物語(夕顔)」「枕草子(102段 あわれなるもの)」などで触れられている。また、「古今和歌集」には紀友則の「みよしのの山べにさける櫻花雪かとのみぞあやまたれける」が載せらており、「新古今和歌集」では西行の歌など、その数はさらに多い。また、南北朝期の「新葉和歌集」には、吉野が南朝の本拠地だったけに後醍醐天皇の「都だにさびしかりしを雲はれぬ芳野のおくの五月雨の比」など数多く掲載されている。
*5 南朝の本拠地:1335(建武2)年、後醍醐天皇が主導した「建武の新政」が瓦解し、足利尊氏に幽閉された後醍醐天皇は京を脱出して吉野山に移り朝廷を開き、南北朝時代(1336~1392年)が始まった。南朝は後醍醐、後村上、長慶、後亀山の4代にわたり存続し、行宮が各所に設けられた。
*6 吉野神宮:1889(明治22)年に明治天皇により創建。祭神は後醍醐天皇。社殿は1932(昭和7)年の改築、国の重要文化財。
*7 櫻本坊:冬にサクラが咲く吉夢を見た大海人皇子(のちの天武天皇)が、即位後、実際にそのサクラを見つけ、そこに寺を建立したのが始まりとされる。神仏習合の修験道場で、本尊の役行者倚像、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像は国の重要文化財に指定されている。
*8 西行庵:サクラを愛したことで知られる平安末期の歌人・西行は、奥千本に3年ほど閑居したともいわれ、「吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき」「吉野山嶺なる花はいづかたも谷にか分きて散り積もるらん」など吉野のサクラの歌を多数残している。
*9 歌:吉野山のサクラの歌が最初に現れるのは、平安時代前期の905(延喜5)年に成立したとされる「古今和歌集」。紀友則の「みよしのの山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」など3首が載る。鎌倉時代初期の「新古今和歌集」では、西行の歌をはじめ、数が増える。