吉野水分神社
吉野山の上千本にある古社。近鉄吉野駅前の千本口駅からロープウェイで3分の吉野山駅下車、そこから吉野山の尾根道を3kmほど上った所に位置する。水の分配を司る天之水分大神を主祭神とし、ほかに玉依姫命(神像の玉依姫命坐像*1は国宝)らを祀る。子守宮とも呼ばれ、安産・子授け・子どもの守護神として信仰されている。創建年代は定かではないが、古くは吉野山の最高所の青根ヶ峰*2(標高854m)に祀られていたといわれる。
現在の社殿は1604(慶長9)年、豊臣秀頼による再建。本殿*3・拝殿・幣殿・楼門・回廊からなり、いずれも国の重要文化財に指定されている。豊臣秀吉は当社に子授け祈願をして秀頼を授かったといわれ、また江戸中期の国学者・本居宣長*4は自分はこの神の申し子であると「菅笠日記」に記している。
現在の社殿は1604(慶長9)年、豊臣秀頼による再建。本殿*3・拝殿・幣殿・楼門・回廊からなり、いずれも国の重要文化財に指定されている。豊臣秀吉は当社に子授け祈願をして秀頼を授かったといわれ、また江戸中期の国学者・本居宣長*4は自分はこの神の申し子であると「菅笠日記」に記している。
みどころ
朱塗りの鳥居をくぐって石段を上ると、こちらも朱が鮮やかな楼門がそびえている。楼門を入ると、右手に山を背にして本殿、左手に拝殿が相対している。桃山建築の社殿は美しく、境内はまさに神々しい雰囲気。異空間に入ったような気さえする。春は境内のシダレザクラも美しい。
補足情報
*1 玉依姫命坐像:国宝(非公開)。木造。像内に建長三(1251)年十月十六日の銘がある。玉依姫は神武天皇の母。
*2 青根ヶ峰:平安時代初期の「続日本紀」には文武天皇二(698)年四月戊午奉馬于芳野水分峰神祈雨之」とあり、大正期の「大和志料」では「古へ水分山ニ在リシヲ洪水ノ爲メニ山崩レココニ遷シ」としている。
*3 本殿:桁行9間、梁間2間、前面を石垣で化粧した基壇の上に建つ。一間社春日造の左右に三間社流造を配し、その間を相の間で連結し、正面屋根に3つの千鳥破風を設けている。花鳥禽獣などを入れた蟇股をはじめ、豊富な極彩色飾金具などで飾っている。
*4 本居宣長:本居宣長は当社を生涯3回訪れている。崇敬の理由を43歳に訪れた際の「菅笠日記」では、「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける」と、宣長の幼いころ亡くなった父親が同社に祈願して宣長を授かったことだとし、自分の原点だとも記している。さらに、「思ひ出る そのかみ垣に たむけして 麻よりしげく ちるなみだかな」(父母の思い出のある神社に参詣し、手向けとして撒く幣よりも、涙が繁く流れ出る)とも詠んでいる。
*2 青根ヶ峰:平安時代初期の「続日本紀」には文武天皇二(698)年四月戊午奉馬于芳野水分峰神祈雨之」とあり、大正期の「大和志料」では「古へ水分山ニ在リシヲ洪水ノ爲メニ山崩レココニ遷シ」としている。
*3 本殿:桁行9間、梁間2間、前面を石垣で化粧した基壇の上に建つ。一間社春日造の左右に三間社流造を配し、その間を相の間で連結し、正面屋根に3つの千鳥破風を設けている。花鳥禽獣などを入れた蟇股をはじめ、豊富な極彩色飾金具などで飾っている。
*4 本居宣長:本居宣長は当社を生涯3回訪れている。崇敬の理由を43歳に訪れた際の「菅笠日記」では、「此御やしろは、よろづのところよりも、心いれてしづかに拝み奉る、さるはむかし我父なりける人、子もたらぬ事を、深く嘆き給ひて、はるばるとこの神にしも、ねぎことし給ひける」と、宣長の幼いころ亡くなった父親が同社に祈願して宣長を授かったことだとし、自分の原点だとも記している。さらに、「思ひ出る そのかみ垣に たむけして 麻よりしげく ちるなみだかな」(父母の思い出のある神社に参詣し、手向けとして撒く幣よりも、涙が繁く流れ出る)とも詠んでいる。
関連リンク | 一般財団法人奈良県ビジターズビューロー(WEBサイト) |
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参考文献 |
一般財団法人奈良県ビジターズビューロー(WEBサイト) 吉野山観光協会(WEBサイト) 「大和志料 下巻」 奈良県教育会 大正3年 330/359 本居宣長記念館(WEBサイト) 奈良県「世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』奈良県保存管理計画(分冊2)」平成17年度 28枚目 |
2024年12月現在
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