大峰山おおみねさん

紀伊半島の中央部、南北50kmにわたって標高1,000~1,900m級の峰が連なっているのが、大峰山脈である。大峰山は狭義では、大峰山脈北部の主峰である山上ヶ岳(標高1,719m)を指し、広義では稲村ヶ岳(同1,726m)・弥山(同1,895m)・八経ヶ岳(同1,915m)などが連なる大峰山脈全体をいう。山脈の北部は古生層、南部は中生層を基盤とした曲隆山脈*1で、石灰岩も多く含まれ、山上ヶ岳の西麓の天川村洞川地区には五代松や面不動の鍾乳洞がある。
 大峰山は、役行者*2が開き、聖宝*3が中興したとされる修験道の山で、山上ヶ岳の山頂には修験道の根本道場である大峯山寺(おおみねさんじ)本堂*4があり、周辺の岩崖などは修行場となっている。この山上ヶ岳は宗教上の理由から今も女人禁制*5を守りつづける。山上ヶ岳の南西にそびえる稲村ヶ岳は女性の修行の山とされており、女人大峰と称される。
 また、役行者が開いたという修験者の修行の道「大峯奥駈(おくがけ)道」*6は吉野川河岸の「柳の宿」(奈良県大淀町)を北の起点として、吉野山、青根ヶ峰(同858m)、大天井ヶ岳(同1,439m)を経て大峯山寺がある山上ヶ岳に向かい、さらに南へ弥山・釈迦ヶ岳(同1,800m)を経て前鬼(ぜんき)*7から熊野へ続いている。
 山上ヶ岳へは、天川村洞川から登るのが一般的。登山口の大峯大橋(清浄大橋)から山頂までは約5km、所要3~4時間。登山口には女人結界門がある。吉野山から大峯奥駈道を歩く場合は、金峯神社、青根ヶ峰、大天井ヶ岳、五番関経由で山上ヶ岳まで約20kmの行程。五番関に女人結界門がある。いずれのコースでも険しい所があるので、登山用装備が必須。
 一帯の気候は、夏は多雨で、初雪は10月末頃に降り5月ごろまでは残雪があるので、登山には注意が必要だ。大峰山系にはカモシカやクマなどが棲息。高山植物の類も多く、シャクナゲ、オオヤマレンゲやオオミネコザクラなどがみられる。
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みどころ

深田久弥は「日本百名山」のなかで大峰山を「諸国にある金峰山は、みなこの本山から蔵王権現を分祀して名づけられたもの」とか、「平安時代には、大峰山は富士山につぐ高峰として、その名が広く知られていたらしい」と、この山の由緒の正しさを取り上げている。深田久弥は一般的な洞川から山上ヶ岳から弥山、八経ヶ岳の縦走路を歩んだが、その行程のなかで印象的だったのか、「山上ヶ岳の主稜中に、岩壁の上を通る所があって、そこに有名な『西の覗き』がある。先達が登山者に命じて岩の上から深い谷を覗かせる。もしそこで親孝行を誓わないと、下へ落ちるというのである」と行場の様子を語っている。山上ヶ岳の山頂周辺は台地状になっており、大峯山寺本堂や宿坊が建ち並ぶ。笹原が広がる「お花畑」と呼ばれる場所は眺望が開け、稲村ヶ岳を眼前に、大普賢岳や八経ヶ岳などの大峰山脈南部の峰々を望める。
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補足情報

*1 曲隆山脈:「地殻が緩やかに上方へたわむ運動を曲隆運動という。曲隆山地は曲隆運動によって生じた山地」(国土地理院による)で、大峰山を含む紀伊山地は、とくに隆起、起伏が激しく、谷壁の傾斜が急峻なV字谷が形成されている。
*2 役行者:7世紀後半の呪術者で修験道の開祖とされる。名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。金峯山(吉野山~大峰山)を開いたとされるほか、全国各地に開山伝説を残す。その実在については諸説あるが、8世紀末に成立した勅撰史書「続日本紀」の文武天皇3(699)年の項に「初メ葛木(城)山ニ住テ咒術ヲ以テ称セラル。外従五位下韓國連(カラクニノムラジ)廣足師トス。後其能ヲ害シ、讒(そ・おとしいれる)スルニ妖惑ヲ以テス。遠處ニ配ス」と記載されている。9世紀初期の説話集「日本霊異記」には葛城山の一言主神が朝廷に「役優婆塞朝家(朝廷)ヲ傾ケ奉ランコトヲ謀ル」と告げ口をして、役行者が伊豆に遠島となったと記されている。大陸伝来の新しい思想や呪術を取り入れたことが、誣告につながったということが窺える説話である。
*3 聖宝:832(天長9)~909(延喜9)年。真言宗の僧で醍醐寺の開祖。役行者の没後に途絶えたといわれる金峯山の山岳修行を再興、修験道の体系化を図ってその基礎を作ったとされ、修験道の中興の祖といわれる。
*4 大峯山寺(おおみねさんじ)本堂:7世紀後半に役行者が金峯山で修行中に金剛蔵王権現を感得し、その御影を祀る堂を山上ヶ岳の山頂に建てたのが始まりとされる。平安時代に聖宝が再興して隆盛、皇族や貴族の参詣が相次いだ。現在の本堂は、1691(元禄4)年の建立で、国指定の重要文化財となっている。
*5 女人禁制:山上ヶ岳の登山口である大峯大橋のほか、五番関、阿弥陀ヶ森、レンゲ辻に女人結界門がある。
*6 「大峯奥駈道」:吉野から熊野まで、大峰山脈の尾根筋に約80km続く。この道を踏破する大峯奥駈修行は修験道の最も大切な行とされる。道中には靡(なびき)と呼ばれる75ヵ所の行場(霊地)があり、修験者たちは各所で祈りを捧げながら、山中の険路をひたすら歩く。山上ヶ岳の山頂周辺には、断崖絶壁の上から上半身を乗り出す「西の覗(のぞ)き」「鐘掛岩」「蟻の戸渡り」などの行場がある。奥駈道は一般の登山者にも利用されるが、上級者向けの区間も多いので、登山計画は慎重に行う必要がある。
*7 前鬼(ぜんき):伝説によれば、生駒山中に前鬼・後鬼(ごき)という鬼の夫婦がおり、里人に災いをもたらしていたが、役行者が呪術をもって捕縛。2人は改心し、役行者に仕えた。のちに現在の下北山村の前鬼集落で暮らすようになり、5人の子は修験者を世話する5つの宿坊を開いたという。前鬼には、今も鬼の子孫という五鬼助(ごきじょ)家が営む宿坊「小仲坊」が残っている。続日本紀では役行者が「能(よ)ク鬼神ヲ役ニ使イ、水ヲ汲ミ薪ヲ採ラシム。若(も)シ命ヲ用ヒザレバ、即チ咒ヲ以テ之ヲ縛ス」としており、日本霊異記でも別の理由で鬼神を困らせ、これが遠島の要因になったという記述もなされている。