吉野山のサクラ
奈良県南部に位置する吉野山は、ひとつの峰を指すものではなく、大峰山脈北端から吉野川南岸まで南北約8kmにわたって続く尾根をいう。一帯には金峯山寺をはじめ修験道に由来する社寺が集まっており、古くからサクラの名所としても知られる。現在は、山内の約50万m2に3万本以上ともいわれるサクラが植えられており、尾根から谷へと山肌を埋めて咲き誇る。サクラは日本古来のヤマザクラが大半で、なかでもシロヤマザクラが中心を占める。見ごろは近年、4月上旬から中旬。麓の下千本から中千本、上千本、奥千本*1へと標高順に開花する。吉野山がサクラの名所となったのは、役行者*2が山中で感得した金剛蔵王権現をサクラの木に刻んだという伝承に由来。古来、サクラは神木として保護され、貴賤を問わず、信者によるサクラの寄進*3が盛んに行われてきた。平安中期以降*4、吉野のサクラは詩歌*5に詠まれて名を高め、現代に至るまで、能・浄瑠璃・歌舞伎*5などの芸能、絵画・陶芸*6などの芸術の題材ともなってきた。
吉野山へは近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウェイで約3分の吉野山駅下車。吉野山駅から奥千本まで路線バスが出ているが、観桜期は吉野駅から竹林院前の間は運休。また、この時期は近鉄吉野駅から如意輪寺前経由で中千本公園まで臨時バスが運行される。中千本公園バス停から竹林院前までは徒歩5分ほど。
吉野山へは近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウェイで約3分の吉野山駅下車。吉野山駅から奥千本まで路線バスが出ているが、観桜期は吉野駅から竹林院前の間は運休。また、この時期は近鉄吉野駅から如意輪寺前経由で中千本公園まで臨時バスが運行される。中千本公園バス停から竹林院前までは徒歩5分ほど。
みどころ
吉野山のサクラ全体をまず見ようというなら、吉野水分神社より少し下ったところの花矢倉展望台がよい。遠くに金峯山寺蔵王堂の大屋根をみながら、尾根と谷を埋め尽くす白に近い淡紅のサクラの花が霞のように広がり、周囲の豊かな緑とのコントラストが美しい。そこからゆっくり下りながら、それぞれのサクラの名所や名木を見て歩くのがお勧め。もちろん、下千本、中千本などで、じっくり神社仏閣とサクラの名所めぐりをしながら、遠いむかしに思いをはせながら素朴なヤマザクラの下を静かに歩いてみるのも風情がある。付け加えれば、吉野山は紅葉も見事。
補足情報
*1 下千本、中千本、上千本、奥千本:吉野山のサクラは「一目千本」(一目で千本見えるほど数が多い)といわれ、そのサクラの群落を標高順に下・中・上・奥千本という。またこれは吉野山のエリア名としても使われる。各千本の中にも、名のあるサクラ群落や名桜があり、下千本では「嵐山の桜」「千本(ちもと)の桜」など、中千本では「四本桜」「御所桜」など、上千本では「滝桜」「布引の桜」などが挙げられる。奥千本については、スギ・ヒノキへの植林と自然災害もあってサクラの木が著しく減少したが、近年、民間団体が中心となって再生を進め、かなり復活してきている。
*2 役行者:7世紀後半の呪術者で修験道の開祖とされる。名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。金峯山(吉野山から山上ヶ岳〈大峰山〉にかけての山々)を開いて金峯山寺を創建したとされるほか、全国各地に開山伝説を残す。金峯山での修行中に現出した蔵王権現を役行者は「一刀三禮作蔵王像安置乎(心をこめて一刻づつ蔵王像を彫って安置した)」との記述が江戸前期の「役君形生記」に見られる。
*3 寄進:平安期から貴賤を問わずサクラの苗木の寄進がなされ、江戸中期には大阪の豪商が1万本のサクラを寄進したという記録も残っている。
*4 平安中期以降:吉野山は古代から神聖視され、役行者ゆかりの霊地とされてきたが、奈良時代末期成立の「万葉集」には吉野山のサクラを詠んだ歌はない。それが最初に現れるのは、905(延喜5)年の成立とされる「古今和歌集」。紀貫之の「こえぬ間は吉野の山のさくら花ひとづてにのみ聞きわたるかな」など3首が載る。鎌倉時代初期の「新古今和歌集」では、西行の歌ほか数が増え、吉野がサクラの名所として定着したことがうかがえる。
南北朝時代には吉野は南朝の本拠地となり天皇の皇居がおかれ、サクラに関する詩歌なども数多く生まれた。また、南朝の武士が後醍醐天皇御陵の守護の名目でサクラの植樹を願い出ており、現在のような桜の植栽が始まったともいわれている。その後、1594(文禄3)年には、豊臣秀吉が随行者5,000人にも及ぶ花見を開き、吉野のサクラは広く知られるようになり、江戸期にも多くの文人墨客がサクラを愛でている。江戸中期の「大和名所図会」には「吉野山は滿山櫻樹にして花時には積雪の朝の如し。騒人墨客(文人や書画文筆家)ここに遊賞し、その名中華に聞こえて天下の名勝なり」と記されている。
*5 詩歌:吉野山=サクラが定着したのは西行の歌によるところが大きい。平安末期の歌人、西行は奥千本に3年ほど庵を結んだともいわれ、50首以上もの吉野山の桜の歌を残した。西行の歌集「山家集」には、「吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき」「吉野山嶺なる花はいづかたも谷にか分きて散りつもるらん」などが収録されている。また、南朝の後醍醐天皇は「ここにても雲井の櫻咲きにけりただかりそめの宿とおもうふじ」などを残している。江戸期では、西行を敬慕する芭蕉も吉野を目指し、その思いを「よし野にて桜見せうぞ檜の木笠」と旅の途中で詠み、蕪村も「みよし野のちか道寒し山櫻」の句を、良寛は「つと(苞:みやげ)にせむよしのゝ里の花がたみ(筐:かご)」(金峯山寺境内碑)などを詠んでいる。
*6 能・浄瑠璃・歌舞伎:能では「吉野天人」、人形浄瑠璃・歌舞伎では「久米仙人吉野桜」「義経千本桜」などがある。
*7 絵画・陶芸:野々村仁清の色絵吉野山図茶壺、尾形光琳の弟子である渡辺始興の吉野山図屏風など。近現代では平山郁夫、奥山土牛などにも吉野のサクラを描いた名作がある。
*2 役行者:7世紀後半の呪術者で修験道の開祖とされる。名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。金峯山(吉野山から山上ヶ岳〈大峰山〉にかけての山々)を開いて金峯山寺を創建したとされるほか、全国各地に開山伝説を残す。金峯山での修行中に現出した蔵王権現を役行者は「一刀三禮作蔵王像安置乎(心をこめて一刻づつ蔵王像を彫って安置した)」との記述が江戸前期の「役君形生記」に見られる。
*3 寄進:平安期から貴賤を問わずサクラの苗木の寄進がなされ、江戸中期には大阪の豪商が1万本のサクラを寄進したという記録も残っている。
*4 平安中期以降:吉野山は古代から神聖視され、役行者ゆかりの霊地とされてきたが、奈良時代末期成立の「万葉集」には吉野山のサクラを詠んだ歌はない。それが最初に現れるのは、905(延喜5)年の成立とされる「古今和歌集」。紀貫之の「こえぬ間は吉野の山のさくら花ひとづてにのみ聞きわたるかな」など3首が載る。鎌倉時代初期の「新古今和歌集」では、西行の歌ほか数が増え、吉野がサクラの名所として定着したことがうかがえる。
南北朝時代には吉野は南朝の本拠地となり天皇の皇居がおかれ、サクラに関する詩歌なども数多く生まれた。また、南朝の武士が後醍醐天皇御陵の守護の名目でサクラの植樹を願い出ており、現在のような桜の植栽が始まったともいわれている。その後、1594(文禄3)年には、豊臣秀吉が随行者5,000人にも及ぶ花見を開き、吉野のサクラは広く知られるようになり、江戸期にも多くの文人墨客がサクラを愛でている。江戸中期の「大和名所図会」には「吉野山は滿山櫻樹にして花時には積雪の朝の如し。騒人墨客(文人や書画文筆家)ここに遊賞し、その名中華に聞こえて天下の名勝なり」と記されている。
*5 詩歌:吉野山=サクラが定着したのは西行の歌によるところが大きい。平安末期の歌人、西行は奥千本に3年ほど庵を結んだともいわれ、50首以上もの吉野山の桜の歌を残した。西行の歌集「山家集」には、「吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき」「吉野山嶺なる花はいづかたも谷にか分きて散りつもるらん」などが収録されている。また、南朝の後醍醐天皇は「ここにても雲井の櫻咲きにけりただかりそめの宿とおもうふじ」などを残している。江戸期では、西行を敬慕する芭蕉も吉野を目指し、その思いを「よし野にて桜見せうぞ檜の木笠」と旅の途中で詠み、蕪村も「みよし野のちか道寒し山櫻」の句を、良寛は「つと(苞:みやげ)にせむよしのゝ里の花がたみ(筐:かご)」(金峯山寺境内碑)などを詠んでいる。
*6 能・浄瑠璃・歌舞伎:能では「吉野天人」、人形浄瑠璃・歌舞伎では「久米仙人吉野桜」「義経千本桜」などがある。
*7 絵画・陶芸:野々村仁清の色絵吉野山図茶壺、尾形光琳の弟子である渡辺始興の吉野山図屏風など。近現代では平山郁夫、奥山土牛などにも吉野のサクラを描いた名作がある。
関連リンク | 吉野山観光協会(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
吉野山観光協会(WEBサイト) 一般社団法人吉野ビジターズビューロー(WEBサイト) 「役君形生記」日本大蔵経第38巻宗典部修験道章疏3 149/334 国立国会図書館デジタルコレクション 「吉野名所誌 6版」13/57 国立国会図書館デジタルコレクション 公益財団法人吉野山保勝会(WEBサイト) |
2024年12月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。