如意輪寺
近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウェイに乗り、約3分で吉野山駅に着く。吉野山駅からは3kmほど。近鉄吉野駅からは、県道37号線で約4km。金峯山寺や吉水神社などがある尾根筋とは沢を挟み、北東方向の尾根筋の中腹にある。
創建は、寺伝によれば、延喜年間(901~923年)醍醐天皇が帰依していたという日蔵(道賢)*1を開基とし、古くは真言宗であったが、中世には西大寺律宗の末寺であったと言われている。南北朝期に後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた折には勅願寺にもなったと伝えられている。本堂東側後方に後醍醐天皇塔尾陵*2と世泰親王陵がある。南朝正平2年12月(西暦では1348年2月)に楠木正行*3は河内国(大阪)四條畷の戦いを前に、一族郎党143人とともに同寺に参詣したことが「太平記」にも記載されている。
室町時代後期から江戸時代初期には一時、寺勢が衰え荒廃に至ったが、楠木一族の末裔とされる文誉鉄牛が1650(慶安3)年に本堂を再建し、浄土宗に改宗した。
現在、境内には、石段の上の山門をくぐると正面に本堂、その奥に後醍醐天皇陵への道となり、左手は庫裏横を通り、後醍醐天皇御霊殿、国指定の重要文化財である厨子付木造蔵王権現立像*4が安置されている権現堂、宝物殿と続き、さらに小道を登ると多宝塔*5が建つ。多宝塔からは吉野の山並みや寺社を一望する。
創建は、寺伝によれば、延喜年間(901~923年)醍醐天皇が帰依していたという日蔵(道賢)*1を開基とし、古くは真言宗であったが、中世には西大寺律宗の末寺であったと言われている。南北朝期に後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた折には勅願寺にもなったと伝えられている。本堂東側後方に後醍醐天皇塔尾陵*2と世泰親王陵がある。南朝正平2年12月(西暦では1348年2月)に楠木正行*3は河内国(大阪)四條畷の戦いを前に、一族郎党143人とともに同寺に参詣したことが「太平記」にも記載されている。
室町時代後期から江戸時代初期には一時、寺勢が衰え荒廃に至ったが、楠木一族の末裔とされる文誉鉄牛が1650(慶安3)年に本堂を再建し、浄土宗に改宗した。
現在、境内には、石段の上の山門をくぐると正面に本堂、その奥に後醍醐天皇陵への道となり、左手は庫裏横を通り、後醍醐天皇御霊殿、国指定の重要文化財である厨子付木造蔵王権現立像*4が安置されている権現堂、宝物殿と続き、さらに小道を登ると多宝塔*5が建つ。多宝塔からは吉野の山並みや寺社を一望する。
みどころ
ここでの見どころのひとつは、権現堂に安置されている木造蔵王権現立像。怒りをあらわして、いまにも一歩前に踏み出そうな勢いのある像である。もうひとつの魅力は、蔵王堂の沢を挟み対岸のような立地にある。江戸前期に発刊された貝原益軒の「和州吉野勝景図」にも、他の吉野山の社寺の筋から離れ、サクラに埋もれるように如意輪寺と後醍醐天皇陵が描き込まれている。もちろん、このサクラの景色も素晴らしいが、初夏の万緑、秋の紅葉など、季節の色合いによって対岸の尾根にある吉野山の寺社の甍が映え、素晴らしい景観をみせてくれる。
補足情報
*1 日蔵(道賢):905~967あるいは985年(生没不詳)。平安中期の修験僧。当初は道賢と名乗っていた。平安期の史書「扶桑略記」に「道賢(今名日藏)以去延喜十六(916)年春二月。年十有二。初入此金峯山。即於發心門椿山寺剃髪。」として、12歳のとき、「椿山寺」(吉野・竹林院)にて出家し、修行に励んだとされている。「扶桑略記」には、941(天慶4)年金峯山で修法中に息絶え、蔵王菩薩に導かれて浄土に至るが、蘇生するという伝説も残している。また、「宇治拾遺物語 巻11」では「日藏上人吉野山にて鬼にあふ事」という説話にも登場している。
*2 後醍醐天皇塔尾陵:後醍醐天皇の御陵で、如意輪寺の裏山にある円墳。1339(延元4)年、吉野の地で志半ばで崩御した後醍醐天皇の埋葬について「太平記」では、「吉野山の麓、藏王堂の艮(うしとら・北東)なる林の奥に、圓丘を高くし築て、北向に奉葬。寂寞(さびしくひっそり)たる空(人けのない)山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳數尺の草、一徑(径)涙盡(つき)て愁未盡(うれいいまだつきず)」と記している。北向きに葬ったのは、後醍醐天皇が死に際し「玉骨は南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(北にある宮=京都)の天を望(ま)んと思ふ」と言い遺したことによるという。
*3 楠木正行:楠木正成の長子。生年不詳~1348年。正行は正成の没後、河内国の国司、守護を継承し、畿内における南朝軍の中枢として活躍した。しかし、南朝正平3年1月(1348年2月)に河内国(大阪)の四条畷で幕府軍(高師直・師泰)と戦い、敗れ、自害した。「太平記」によると、この四条畷の戦を前にした正行は、「今度の軍(いくさ)に一足も不引、一處にて討死せんと約束したりける兵(つわもの)百四十三人、先皇(後醍醐天皇)の御廟に參て、今度の軍難儀ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂(寺)の壁板に、各苗字を過去帳に書連て。其奥に、『返らじと兼ねて思へば梓弓、なき數にいる名をぞとどむる。』と一首の歌を書留め、逆修の爲と覺(おぼし)くて、各鬢髪を切て佛殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へと向ける」と、如意輪寺にて討死覚悟を固めて戦いに臨んだとしている。現在、同寺の宝物殿には楠木正行が辞世の歌を刻んだ扉、兜、刀など南朝ゆかりのものを収蔵展示している。
*4 厨子付木造蔵王権現立像:像高84cm。左足枘に嘉禄二(1226)年九月巧匠筑後検校源慶等の朱書銘がある。源慶は平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した慶派仏師で運慶の弟子。厨子には延元元(1336)年の墨書銘があり、後醍醐天皇宸筆と伝承する詩と御嶽曼陀羅絵が内側に描かれている。権現堂に安置されている。
*5 多宝塔:総ケヤキ造りの2層の塔。塔内には阿弥陀仏を祀る。大正年間の再建。塔の回りにはシダレザクラが植えられ、沢を挟み、金峯山寺(蔵王堂)などを遠望する。また、吉野山のサクラを眺望するのに格好な場所でもある。
*2 後醍醐天皇塔尾陵:後醍醐天皇の御陵で、如意輪寺の裏山にある円墳。1339(延元4)年、吉野の地で志半ばで崩御した後醍醐天皇の埋葬について「太平記」では、「吉野山の麓、藏王堂の艮(うしとら・北東)なる林の奥に、圓丘を高くし築て、北向に奉葬。寂寞(さびしくひっそり)たる空(人けのない)山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳數尺の草、一徑(径)涙盡(つき)て愁未盡(うれいいまだつきず)」と記している。北向きに葬ったのは、後醍醐天皇が死に際し「玉骨は南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(北にある宮=京都)の天を望(ま)んと思ふ」と言い遺したことによるという。
*3 楠木正行:楠木正成の長子。生年不詳~1348年。正行は正成の没後、河内国の国司、守護を継承し、畿内における南朝軍の中枢として活躍した。しかし、南朝正平3年1月(1348年2月)に河内国(大阪)の四条畷で幕府軍(高師直・師泰)と戦い、敗れ、自害した。「太平記」によると、この四条畷の戦を前にした正行は、「今度の軍(いくさ)に一足も不引、一處にて討死せんと約束したりける兵(つわもの)百四十三人、先皇(後醍醐天皇)の御廟に參て、今度の軍難儀ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂(寺)の壁板に、各苗字を過去帳に書連て。其奥に、『返らじと兼ねて思へば梓弓、なき數にいる名をぞとどむる。』と一首の歌を書留め、逆修の爲と覺(おぼし)くて、各鬢髪を切て佛殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へと向ける」と、如意輪寺にて討死覚悟を固めて戦いに臨んだとしている。現在、同寺の宝物殿には楠木正行が辞世の歌を刻んだ扉、兜、刀など南朝ゆかりのものを収蔵展示している。
*4 厨子付木造蔵王権現立像:像高84cm。左足枘に嘉禄二(1226)年九月巧匠筑後検校源慶等の朱書銘がある。源慶は平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した慶派仏師で運慶の弟子。厨子には延元元(1336)年の墨書銘があり、後醍醐天皇宸筆と伝承する詩と御嶽曼陀羅絵が内側に描かれている。権現堂に安置されている。
*5 多宝塔:総ケヤキ造りの2層の塔。塔内には阿弥陀仏を祀る。大正年間の再建。塔の回りにはシダレザクラが植えられ、沢を挟み、金峯山寺(蔵王堂)などを遠望する。また、吉野山のサクラを眺望するのに格好な場所でもある。
関連リンク | 如意輪寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
如意輪寺(WEBサイト) 新纂浄土宗大辞典 如意輪寺(WEBサイト) 吉野町所在・指定文化財等一覧 永井一孝 校「太平記 下」有朋堂書店 昭和2年 11・81/354 国立国会図書館デジタルコレクション 貝原益軒「和州吉野山勝景図」正徳3(1713)年 23/25 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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