英彦山神宮
英彦山の山内至る所に社殿が散在している。主な社殿は上宮、中宮、下宮と、奉幣殿および摂社の高住神社や玉屋神社などがあるが、鬱蒼とした杉の長い参道や坊跡に修験道の往時を伝える。参道は銅鳥居(かねのとりい)からはじまり、民家や坊の並ぶ桜並木の石段を500m登ると神宮下。さらに300段の石段を登ると奉幣殿で、そこから上宮までは約2kmの険しい道である。ほかに旧亀石坊庭園や英彦山修験道館などもある。
古くは日子山と称したが、819(弘仁10)年、嵯峨天皇により彦山と改められ、霊仙寺と号した。下って1729(享保14)年、霊元法皇が英彦山と改称した。盛時は修験道の道場として大いに栄えたが、1581(天正9)年、大友宗麟*に攻められ、全山焼失。江戸時代に復興したが、明治の神仏分離、修験道廃止により決定的な打撃を受けた。以来、英彦山神社となるが、1975(昭和50)年、神宮に昇格した。
古くは日子山と称したが、819(弘仁10)年、嵯峨天皇により彦山と改められ、霊仙寺と号した。下って1729(享保14)年、霊元法皇が英彦山と改称した。盛時は修験道の道場として大いに栄えたが、1581(天正9)年、大友宗麟*に攻められ、全山焼失。江戸時代に復興したが、明治の神仏分離、修験道廃止により決定的な打撃を受けた。以来、英彦山神社となるが、1975(昭和50)年、神宮に昇格した。
みどころ
まず、参道入り口にある銅鳥居に注目したい。高さ約7m、柱の周囲約3mもある巨大なもので、全国でも珍しい青銅製の鳥居。佐賀藩主・鍋島勝茂が1637(寛永14)年に寄進したもので、霊元法皇の勅額「英彦山」を掲げている。石段の続く参道は雰囲気がいい。参道の両側には宿坊跡が続き、ここが修験の地であったことを感じさせてくれる。霧が立ち込めた日などは、一層森閑とした様子になる。
参道を登った先にあるのが奉幣殿(国指定重要文化財)。現在の社殿は1616(元和2)年、小倉藩主・細川忠興が再建し、大講堂として使用されていたもの。正面、側面ともに約33m、高さ約16mあり、入母屋造の豪壮な建築だ。柿葺の屋根や朱塗の柱が杉木立に映え、華美な装飾がない分、すっきりと重厚なたたずまいを見せている。
奉幣殿の北側には、修験板笈(重要文化財)をはじめ、神具や仏具、仏像、民俗資料など約150点を展示する英彦山修験道館(冬期休館)がある。ここを訪れれば英彦山の修験道、神宮について学ぶことができる。
参道を登った先にあるのが奉幣殿(国指定重要文化財)。現在の社殿は1616(元和2)年、小倉藩主・細川忠興が再建し、大講堂として使用されていたもの。正面、側面ともに約33m、高さ約16mあり、入母屋造の豪壮な建築だ。柿葺の屋根や朱塗の柱が杉木立に映え、華美な装飾がない分、すっきりと重厚なたたずまいを見せている。
奉幣殿の北側には、修験板笈(重要文化財)をはじめ、神具や仏具、仏像、民俗資料など約150点を展示する英彦山修験道館(冬期休館)がある。ここを訪れれば英彦山の修験道、神宮について学ぶことができる。
補足情報
*大友宗麟:1530~1587年。戦国大名。朝鮮やポルトガル船と貿易を行い、一時北九州6カ国を支配した。キリスト教に帰依し1582(天正10)年日本初の遣欧使節をローマ法王に派遣した。
関連リンク | 英彦山神宮(WEBサイト) |
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参考文献 |
英彦山神宮(WEBサイト) 添田町(WEBサイト) 福岡県町村会(WEBサイト) |
2020年04月現在
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