玉置神社
奈良、和歌山、三重3県の県境近く、大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座している。創建は、社伝*1では紀元前37年の崇神天皇の時代と伝えているが不詳。ただ、古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場*2の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現と称し崇敬を集め、修験道の霊場*3として社殿などが整えられたと見られている。江戸時代には別当寺の高牟婁院が置かれ、熊野三山の奥院とも称せられ、江戸中期の大和名所図会には「僧坊四舎」があったとされている。明治に入り、神仏分離により玉置三所大神となり、現在は玉置神社と号している。
境内は初夏にはシャクナゲが咲き、樹齢3,000年と言われる神代杉をはじめ杉の巨樹が叢生し、そのなかに江戸中期の再建といわれる本殿や国の重要文化財に指定されている社務所*4などが、玉置山の中腹の急斜面に建ち並ぶ。また、玉置山の山頂に向かう道には玉石を神体とする末社の玉石社*5もある。
境内は初夏にはシャクナゲが咲き、樹齢3,000年と言われる神代杉をはじめ杉の巨樹が叢生し、そのなかに江戸中期の再建といわれる本殿や国の重要文化財に指定されている社務所*4などが、玉置山の中腹の急斜面に建ち並ぶ。また、玉置山の山頂に向かう道には玉石を神体とする末社の玉石社*5もある。
みどころ
十津川村の中心部から東南方向に山道を約10km、玉置山山頂の直下の駐車場に辿り着く。駐車場から玉置山の中腹を巻くように山道の参道を30分ほどを歩く。本殿に向けては少し下っており、境内は鬱蒼とした杉林に囲まれ、神代杉と夫婦杉などの巨樹も並ぶ。本殿は参道からは一段高いところにあり、仰ぎ見る形になり、杉の巨木を背に負うように建つので神秘的な雰囲気が漂う。右手には江戸時代に修験者たちが集っていたという社務所が建ち、当時の修験道の様子を伺い知ることができる。
少し足を延ばして、玉石社を経て玉置山の山頂を目指し、「奥駈道」を体験してみるのも良いだろう。山頂からは眺望は東に開け、熊野灘を望む。また、山頂から100mほど低い位置(駐車場からは約1.2km)の車道沿いには玉置山展望台があり、果無山脈や十津川を眺望できる。
少し足を延ばして、玉石社を経て玉置山の山頂を目指し、「奥駈道」を体験してみるのも良いだろう。山頂からは眺望は東に開け、熊野灘を望む。また、山頂から100mほど低い位置(駐車場からは約1.2km)の車道沿いには玉置山展望台があり、果無山脈や十津川を眺望できる。
補足情報
*1 社伝:江戸中期の「大和志」では、901(延喜元)年発行の編年記「日本三代実録」の元慶5(881)年10月の条に「従五位下」を授かったと記載されているとしているが、「日本三代実録」にはその記載は確認できない。一方、現在十津川村郷土資料館に寄託展示されている同社の梵鐘には、その銘に「應保三年(1163)癸巳三月三日」があることから平安期には社殿などが整えられたと考えられる。
*2 行場:室町末期成立の「役行者本記」では「天武帝白鳳十二年癸未四月。直赴三熊野山順歩留玉木(置)。」とし、684(天武天皇13)年、役行者50歳の時、熊野に修行に入り、吉野に向かう途中、玉置にも立ち寄っているとしている。この真偽は不明だが、少なくともこの地が古くから修験者の行場であったことは推測できる。
*3 修験道の霊場:吉野から熊野への道は「大峯奥駈道」と呼ばれ、紀伊山地の大峰山系の険しい山道で約120kmに及ぶ。途中、七十五靡(なびき)と呼ばれる数多くの行場、拝所・霊所があり、峻険な山々での修験道の過酷な修行の場となっている。十津川村にはこのうち35の靡があり、玉置山もそのひとつで、神社は拝所・霊所であるとともに行者宿の役割も果たしていたと思われる。
*4 社務所:1804(文化元)年の建築物で、台所とともに国の重要文化財に指定されている。地下には参籠所をもつ。江戸時代には聖護院の支配下にあったので、その門跡が訪れた際に滞在する書院も整っている。社務所内部は杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られており、これらのすべてに幕末の狩野派の絵師・法橋橘保春らの筆による、松・牡丹・孔雀・鸚鵡・鶴などの花鳥図が描かれている。改造が少なく、修験道に関する建物としても希少価値があるという。
社務所は、懸造、桁行22.0m、梁間15.0m、入母屋造、西面軒唐破風付、銅板葺。台所は、桁行9.0m、梁間8.9m、東面入母屋造。
*5 玉石社:「和州吉野旧事記」(成立不明)には「玉置権現者熊野権現ノ御子アラミサキニテ三珠ノ玉ト示現〆此玉置山二飛来リ椙ノ標二神マシマス」(玉置権現は熊野権現の御子で主神に前駆する勇武の神で三珠の玉と霊験し、玉置山に飛来し杉を標に神とおわす)と、玉置神社の基となったことを記述している。同社には社殿がなく玉石を神体とする古代の信仰様式を残している。
*2 行場:室町末期成立の「役行者本記」では「天武帝白鳳十二年癸未四月。直赴三熊野山順歩留玉木(置)。」とし、684(天武天皇13)年、役行者50歳の時、熊野に修行に入り、吉野に向かう途中、玉置にも立ち寄っているとしている。この真偽は不明だが、少なくともこの地が古くから修験者の行場であったことは推測できる。
*3 修験道の霊場:吉野から熊野への道は「大峯奥駈道」と呼ばれ、紀伊山地の大峰山系の険しい山道で約120kmに及ぶ。途中、七十五靡(なびき)と呼ばれる数多くの行場、拝所・霊所があり、峻険な山々での修験道の過酷な修行の場となっている。十津川村にはこのうち35の靡があり、玉置山もそのひとつで、神社は拝所・霊所であるとともに行者宿の役割も果たしていたと思われる。
*4 社務所:1804(文化元)年の建築物で、台所とともに国の重要文化財に指定されている。地下には参籠所をもつ。江戸時代には聖護院の支配下にあったので、その門跡が訪れた際に滞在する書院も整っている。社務所内部は杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られており、これらのすべてに幕末の狩野派の絵師・法橋橘保春らの筆による、松・牡丹・孔雀・鸚鵡・鶴などの花鳥図が描かれている。改造が少なく、修験道に関する建物としても希少価値があるという。
社務所は、懸造、桁行22.0m、梁間15.0m、入母屋造、西面軒唐破風付、銅板葺。台所は、桁行9.0m、梁間8.9m、東面入母屋造。
*5 玉石社:「和州吉野旧事記」(成立不明)には「玉置権現者熊野権現ノ御子アラミサキニテ三珠ノ玉ト示現〆此玉置山二飛来リ椙ノ標二神マシマス」(玉置権現は熊野権現の御子で主神に前駆する勇武の神で三珠の玉と霊験し、玉置山に飛来し杉を標に神とおわす)と、玉置神社の基となったことを記述している。同社には社殿がなく玉石を神体とする古代の信仰様式を残している。
2024年12月現在
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