大峯山寺おおみねさんじ

紀伊半島の中央部、南北50kmにわたって標高1,000~1,900m級の峰が連なっている大峰山脈。その北部の主峰・山上ヶ岳(標高1,719m)の山頂に大峯山寺はある。修験道の根本道場であり、古来、多くの修験者や信者を迎えてきた。7世紀後半に役行者*1が金峯山(大峰山脈北端の吉野山から山上ヶ岳までの一帯)で修行中に金剛蔵王権現を感得、その御影を刻んだ像を祀る堂を建てたのが始まりとされる。平安時代には聖宝*2が再興して隆盛、皇族や貴族の参詣が相次いだ。しかし戦国時代の戦乱の中で、本堂をはじめ伽藍を焼失した。現在の本堂は江戸時代中期の再建。1691(元禄4)年に内陣部分が建立され、1706(宝永3)年までに外陣部分の拡張が行われた。正面約23m、側面約19m、棟高約13m、寄棟造の大建築で、国指定の重要文化財となっている。また本堂およびその周辺から発掘された山岳信仰にまつわる多数の出土品*3は、国宝や重要文化財に指定されている。
 吉野山から山上ヶ岳を経て熊野に至る修験道の修行の道を、「大峯奥駈道」という。大峰山脈の尾根筋に約80km続く険しい山道で、道沿いには多くの行場がある。なかでも、大峯山寺が建つ山上ヶ岳の山頂周辺には「西の覗(のぞき)」「鐘掛岩」「油こぼし」などが集まっている。大峯山寺では毎年5月3日、冬の間は閉ざしていた本堂の扉を開ける戸開式が行われ、戸閉式が行われる9月23日まで修行シーズンが続く。また、本堂周辺には5つの宿坊がある。なお、山上ヶ岳は宗教上の理由から今も女人禁制とされている。
 山上ヶ岳は天川村の洞川から登るのが一般的。登山口の大峯大橋(清浄大橋)の少し先に女人結界門があり、その先は女人禁制。山頂までは約5km、約3~4時間の道のりである。吉野山から大峯奥駈道をたどる場合は、青根ヶ峰、大天井ヶ岳、女人結界門のある五番関などを経由して約20kmの行程。距離が長く上級者向けのルートである。洞川から登る場合も険しい箇所があるので、きちんとした登山用装備が必要となる。
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みどころ

深田久弥は「日本百名山」のなかで大峯山寺について「いま多数の人が大峰詣りとして登山するのは、その中の山上ヶ岳であって、信仰を現わす多くの石碑が立ち並び、頂上には金剛蔵王権現を本尊とする大きな本堂がある。そしてこの峰だけは今なお女人禁制である」とし、山岳信仰の中心地であったことを記している。1,700mという高山の厳しい環境に耐えうるように棟高を抑え、どっしりとした簡素な構えの本堂は、役行者が金剛蔵王権現を感得した場所として、また、修験者たちの厳しい修行の場として、古くから多くの修験者たちを風雪に耐えながら待ち構えていたということに思いをはせるのに十分な風格がある。
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補足情報

*1 役行者:7世紀後半の呪術者で修験道の開祖とされる。名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。金峯山を開いたとされるほか、全国各地に開山伝説を残す。その実在については諸説あるが、8世紀末に成立した勅撰史書「続日本紀」の文武天皇3(699)年の項に「初メ葛木(城)山ニ住テ咒術ヲ以テ称セラル。外従五位下韓國連(カラクニノムラジ)廣足師トス。後其能ヲ害シ、讒(そ・おとしいれる)スルニ妖惑ヲ以テス。遠處ニ配ス」と記載されている。9世紀初期の説話集「日本霊異記」には葛城山の一言主神が朝廷に「役優婆塞朝家(朝廷)ヲ傾ケ奉ランコトヲ謀ル」と告げ口をして、伊豆に遠島となったと記されている。大陸伝来の新しい思想や呪術を取り入れたことが、誣告につながったということが窺える説話である。
*2 聖宝:832(天長9)~909(延喜9)年。平安時代の真言宗の僧。醍醐寺の開祖でもある。三論、法相、華厳、密教を学び、役行者を崇敬し、修験道の体系化、組織化を図った。
*3 出土品:江戸時代に山頂付近の経塚から藤原道長が埋めた「金銅藤原道長経筒」が出土している。この経筒については、道長の日記「御堂関白記」にも、1007(寛弘4)年8月2日に金峯山(大峯山寺がある山上ヶ岳)に参拝のため京を出立し、同月11日に経筒などを奉納し埋めたことが記録されている。なお、「金銅藤原道長経筒」は現在、国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されている。また、 1983~1986(昭和58~61)年の大峯山寺本堂の解体修理に伴って行われた発掘調査においても、黄金仏2体ほか多数が出土し、国の重要文化財に指定され、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に寄託されている。

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