大井川おおいがわ

静岡・山梨・長野3県の県境にある南アルプス間ノ岳(3,189m)に源を発し、静岡県中部を縦断し駿河湾に注ぐ全長約168kmの川。
上流では切り立った深い峡谷を利用して、畑薙・井川など多くのダムが造られ電源開発がなされてきた。山岳景観に優れるとともに、接阻峡*1や寸又峡などの渓谷の景勝地も多い。
 中流の川根地方は、大井川が「鵜山の七曲り」*2などで激しく蛇行し集落のほとんどは河岸段上にあって、茶*3と林業を主産業としている。大井川流域の地層に砂岩、泥岩が多いため、下流部においては広大な扇状地を形成し、その先端部では厚い沖積面を有する平野部が広がっている。広い河川敷に多くの砂州が発達し、その間を水の流れが網目状に縫い特徴的な景観を呈している。このような地形の大井川は大雨などで流路が大きく変わるため、かつては氾濫も多く、輪中堤防や舟形屋敷*4など、治水、水害対策に知恵を絞ってきた。
 一方で、牧之原台地などの台地や島田市などの平野部には大井川から用水路が引かれ、特産品の茶、メロンを始めとして米、野菜、果物などの農業用水などとして活用されている。
 大井川は地政学的にも重要な川であり、江戸時代には幕府は駿府や江戸防衛の観点から、架橋を禁じ厳しい徒渉制度*5を定めた。そのため「……越すに越されぬ大井川」と詠われ、東海道きっての難所と言わしめるほどであった。「川越し」は島田・金谷の両岸に配された川越人足によって行われ、川の増水による川留めもあったため、島田、金谷の両宿は栄えた。その名残として大井川川越遺跡*6や島田大祭(帯まつり)などがあり、当時の様子をうかがい知ることができる。                                             
 なお、上流部の千頭-井川にはわが国唯一のアプト式列車の大井川鐵道井川線(南アルプスあぷとライン)が、中下流部の金谷ー千頭間はSL運行で知られる大井川鐵道本線が、大井川に寄り添うように走っている。
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みどころ

箱根の馬子唄に「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と謡われるほどの難所であった大井川。「東海道中膝栗毛」のなかでも「蓮臺に打乗見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちをも捨なんとおもうふほどの恐ろしさ、たとゆるにものなく、まことや東海第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所」と描かれている。
 しかし、現在は、「川越し」のあった下流部は上流にダムができ堤防が整備され、砂州が目立ち通常は水量も少なめだ。大井川の「川越し」については、島田側の大井川川越遺跡や市立博物館に立ち寄ると、当時の様子をうかがい知ることができる。また、遺跡から3km下流にある木造歩道橋「蓬莱橋」は「世界一の長さの木造歩道橋」としてギネスに登録されており、大井川の下流域の流れを間近に眺めることができる。
 中流部の両岸は河岸段丘が形成され、川幅も徐々に狭まっている。河岸段丘上は見事なほどに手入れの行き届いた茶畑が続く。この茶畑と大井川に沿って大井川鐵道の観光SLが走る姿は鉄道ファンならずとも、心躍らせるものがある。
 上流域は何と言っても、接阻峡の峡谷美だ。新緑と紅葉が接阻湖の湖面には映えひときわ美しい。奥大井湖上駅から、高さ70mの橋梁を接阻峡温泉まで徒歩で渡ることができ、スリルと渓谷美を楽しむこともできる。さらに最上流部の井川ダムや畑薙第一、第二ダムでは、山深い谷あいのダムの大きさに圧倒される。
 井川ダムにはダムの構造などをガイドする展示館がある。また、畑薙第一ダムは南アルプスの赤石岳などの登山口にもあたり、ダムからの南アルプスの威容もみどころだ。とくにダム周辺の山々が紅葉で染まり、南アルプスの山頂部が白い冠をかぶり始める頃の景観は見飽きない。
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補足情報

*1 接阻峡:大井川鐵道井川線(南アルプスあぷとライン)の梅地駅から井川駅までの間の渓谷。この付近の大井川は、両側から山が迫り10数mほど川幅となっており、山々は原生林に覆われまさに幽谷の観をみせる。鉄道は山腹の高いところを渓谷に沿って走るので、渓谷の眺望は良い。また、終点井川駅に向かう途中、ダム湖である接阻湖に架る橋の上には奥大井湖上駅がある。        
*2 鵜山の七曲り(うやまのななまがり):大井川が中流域に入った川根本町塩郷付近から川根町にかけての流れは、うねうねと曲がりくねり「七曲り」と呼ばれるほどである。これは、平野部で蛇行した流路の川底に刻み込まれた下方浸食が隆起によってさらに深く刻まれた嵌入蛇行(かんにゅうだこう)といわれる地形で、全国的にも珍しい景観である。この区間の直線距離は約3.5kmだが、屈曲が激しいため、川の長さは約13kmもある。川筋から少し離れた高台から眺望すると、その様子が手に取るようにわかる。  
*3 茶:大井川の中流域で生産される茶は「川根茶」と呼ばれ、香りの良さと喉ごしの爽快感で知られている。この地では1659(万治2)年にすでに租税上納表にて茶に関する項目が表記されており、古くから栽培されていたことが分かる。幕末から茶の輸出が盛んになり、川根地区でも急激に生産が増えた。そのなかで川根茶は独自の手もみ手法を開発し、「川根茶」のブランドを揺るぎないものにした。川根茶が良質といわれるのは、太平洋の暖気が南アルプスで受け止められ、適切な雨量・湿気と昼夜の寒暖差・清冽な水、それに粘板岩、砂岩、凝灰岩などを組成とする地質およびススキなどの有機質肥料による土壌づくりなどによるものだとされている。                                                                            *4 舟形屋敷:下流部においては、川の氾濫が多発したため、水害対策として、屋敷の造成にあたって平野部の小高い土地に河原の土石を入れ、洪水時に水が流れ出てくる方向に舟の舳先を向けるように舟形の土手を築き、周囲には溝を掘り込んだ。これにより洪水時の水の勢いを弱め、家や土地を守ろうとした。土手には松や竹などを植え、防風林としても活用した。舟形の舳先部分には聖域として墓地が置かれたという。
*5 徒渉制度:江戸時代の初期には、東海道を含む五街道を中心に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が進んだ。しかし、大きな河川では架橋がゆるされず、大井川は駿府、江戸防衛上の理由から渡船も禁止された。流れも急なため、旅人は川越人足により肩車や輦台に担がれ渡ることとなった。やがて街道の通行量の増大とともに、これを管理するため、1696(元禄9)年に徒渉制度ができ、川会所が設置された。その会所では、水深により変わる川越賃銭の設定、通行人の渡渉の割り振り、荷物の運搬の手配などの業務を取り仕切った。徒渉制度は明治維新まで続けられたが、1870(明治3)年に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止された。
*6 大井川川越遺跡:現在の川会所の建物は1856(安政3)年に建てられたもの。徒渉制度廃止後は大井川通船事務所や校舎などに活用され、移転もたびたびおこなわれたが、1966(昭和41)年に国の史跡指定を受けたの機に、1970(昭和45)年現在地へ移築された。現在は、川会所の建物を中心に人足の番宿などの風景を再現しており、一部の施設は公開されている。また、隣接する島田市博物館では、江戸時代後期の大井川と川越しの様子、島田宿の川留め文化などを紹介している。