島田大祭(帯まつり)しまだたいさい(おびまつり)

JR東海道本線島田駅から北へ500mほどのところにある大井神社の例祭。3年に1度(干支で寅・巳・申・亥の年)、10月中旬に3日間にわたり開催される。大井神社は大井川鎮護や安産の神として、島田宿で古くから崇敬されている。
 1695(元禄8)年から下島にあった元の社地(現在の御仮屋町)*1へ神輿渡御が行われることになり、現在の形式の神事祭式が定まった。さらに、島田宿の発展とともに代官より祭りの無礼講が許されることになり、神輿渡御供奉の列が「大藩諸侯の参勤交代のさまに擬ふるもの」(『志太郡誌』)へと盛大になっていったという。
 供奉の列には、宿役人、氏子、大奴*2、鹿島踊り*3の姿もすでにあったとされる。現在では「帯まつり」とも称されるが、これは、当時、島田宿に嫁入りをすると、大井神社に参拝した後、新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があったことから始まり、町並みの拡大に伴い、神輿供奉の列に加わっている大奴にその帯を下げて披露してもらうようになったことからだ、とされている。                
 大祭は、前日の「衣裳揃え」から始まり、島田市本通や周辺の町が7街と2町とに分かれ、7街が神札を祀った5基の屋台の引き回しや鹿島踊り、大名行列、大奴などの役割を担い、2町が御旅所や神輿の世話をする。初日、2日目には、余興、出し物がそれぞれの町内で練り歩く。神輿渡御のある最終日は、大奴、大名行列、神輿、鹿島踊り、屋台の行列が、大井神社から御旅所までの約1.7kmを往復する。
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みどころ

神輿に供奉する大名行列は艶やかで華麗。とくに大奴がみもの。その所作も伝承されてきたもので興味深い。鹿島踊りは、春日大社との関係が深い茨城県の鹿島神宮が発祥地。これらの踊り、奏楽も伝承されてきたもので、当時の「疫病退散」の願いがこめられ、三番叟や大黒様に似た、色鮮やかな衣装を着た古雅豊かな踊りを見せる。
 5基の屋台では、屋台を曳く綱のなかで踊る「地踊り」や屋台上で踊る「上踊り」が披露される。着飾って一生懸命踊る姿は愛らしい。
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補足情報

*1 元の社地(現在の御仮屋町):大正期の「志太郡誌」では、「古來大井大明神と稱す。大井川奥谷畑村大澤に鎮座ありしを、建治二(1276)年、島田驛字下島(現在の御仮屋町、御旅所がある)に遷座せしものともいふ。慶長九(1605)年、大井川洪水のため、神祠を野田御手水谷に移す。元和元年(1615)、驛東の下島に復歸し、元禄二(1689)年九月、今の地(大井神社の現在地)に遷座す」としており、江戸後期の「駿河記」でも同様の由緒を記し、「元禄中(1688~1704年)神事祭禮の式を定」めた、ともしている。                              
*2 大奴:1814(文化11)年の「桑原藤泰山西勝地真景縮図」には、大奴と鹿島踊りの衣装と振り付けの図絵が掲載されている。大奴の由来については不詳であるが、同図の注釈では「元禄中作リ山伏ヲ仕立テナリ出シカ 後世諸侯ノ行列ノナリモノニ混雑シテ 終ニ大奴ト呼フ 今ハ徒士ノコトシ」とし、「志太郡誌」(『島田町誌』からの引用)では「蓋し元禄武士の扮装なり。或云、古へ神祠を移すの時、山伏十数名神輿に陪隨せり、其行装を模すと云ふ」ともしている。衣装についても『志太郡誌』は「黒の木綿筒袖半天を着し、大六尺、小五尺許なる木刀を佩び、婦人大帶二筋を下緒となす」など詳細に記しており、現在も概ね継承されている。     
*3 鹿島踊り:延宝年間(1673年~1681年)に疫病退散を願い春日神社を大井神社の境内に勧請した際に、同時に伝わったという。鹿島踊りは千葉県房総半島から静岡県伊豆半島を中心に広まったが、島田宿はその西限といわれる。神輿を供奉する大名行列、神輿に続き、鹿島踊りが披露される。三番叟を先頭に大黒様のような衣装を着たお鏡・鼓・ささら役が笛太鼓に合わせ踊る。