萩の城下町
萩の城下町は、日本海に向って流れる阿武川の下流が二手にわかれて(東が松本川、西側が橋本川)できた三角州にある。1604(慶長9)年に萩藩*1の本拠地として毛利輝元*2は、三角州の北西部で日本海に突き出している指月山を背に萩城を築き、三角州に向かって城下町を整備した。
現在、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産としての城下町は、(1)城跡、(2)三の丸だった堀内の旧上級武家地、(3)それに続く呉服町・南古萩町一帯の旧町人地から構成されており、その間に萩博物館*3が建っている。このうち、堀内地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、呉服町・南古萩町一帯の町人地は国指定史跡となっている。さらに三角州の南西部の橋本川に沿う平安古(ひやこ)地区と三角州の右肩にあたる萩商港付近の浜崎地区も重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。この他に萩の市内では南部の萩往還沿いの宿場町であった佐々並市(ささなみいち)も伝建地区に選定されている。
堀内地区は、藩政時代には藩の上級武士の邸宅が立ち並んでいたところで、今も旧厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋*4・旧周布(すふ)家長屋門・旧益田家物見矢倉*5・口羽(くちば)家住宅・堀内鍵曲(かいまがり)*6・天樹院(てんじゅいん)墓所*7などが遺り、問田益田(といだますだ)氏旧宅土塀*8をはじめ、白壁の土塀や石垣が続く。
旧町人地の呉服町・南古萩町一帯には、菊屋横町・伊勢屋横町・江戸屋横町といった小路があり、木戸孝允旧宅*9・高杉晋作誕生地*10や、菊屋家住宅*11のような町家、なまこ壁の土蔵などがかつての姿のまま遺されている。
萩城三の丸を囲む外堀の南に位置する平安古(ひやこ)地区は、開墾が進むにつれ、毛利一門の下屋敷や上級、中級の武士が屋敷地を構えたところで、橋本川沿いに江戸時代の地割りをよく遺している。その中心に旧田中別邸*12があり、別邸の北側の長い土塀が続く平安古鍵曲はかつての面影をそのままにしている。
浜崎地区は、城下町の形成とともに開かれた港町で、近世は北前船の寄港地として廻船業と水産業で栄えところ。大正から昭和初期には水産加工業や夏みかん等の積み出し港として繁栄した。江戸時代からの街路、敷地割がよく遺っており、江戸時代から昭和初期に建てられた町家が数多く見られ、萩藩の港の施設として1608(慶長13)年萩城築城後まもなく建てられた旧萩藩御船倉(おふなぐら)*13もある。
現在、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産としての城下町は、(1)城跡、(2)三の丸だった堀内の旧上級武家地、(3)それに続く呉服町・南古萩町一帯の旧町人地から構成されており、その間に萩博物館*3が建っている。このうち、堀内地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、呉服町・南古萩町一帯の町人地は国指定史跡となっている。さらに三角州の南西部の橋本川に沿う平安古(ひやこ)地区と三角州の右肩にあたる萩商港付近の浜崎地区も重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。この他に萩の市内では南部の萩往還沿いの宿場町であった佐々並市(ささなみいち)も伝建地区に選定されている。
堀内地区は、藩政時代には藩の上級武士の邸宅が立ち並んでいたところで、今も旧厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋*4・旧周布(すふ)家長屋門・旧益田家物見矢倉*5・口羽(くちば)家住宅・堀内鍵曲(かいまがり)*6・天樹院(てんじゅいん)墓所*7などが遺り、問田益田(といだますだ)氏旧宅土塀*8をはじめ、白壁の土塀や石垣が続く。
旧町人地の呉服町・南古萩町一帯には、菊屋横町・伊勢屋横町・江戸屋横町といった小路があり、木戸孝允旧宅*9・高杉晋作誕生地*10や、菊屋家住宅*11のような町家、なまこ壁の土蔵などがかつての姿のまま遺されている。
萩城三の丸を囲む外堀の南に位置する平安古(ひやこ)地区は、開墾が進むにつれ、毛利一門の下屋敷や上級、中級の武士が屋敷地を構えたところで、橋本川沿いに江戸時代の地割りをよく遺している。その中心に旧田中別邸*12があり、別邸の北側の長い土塀が続く平安古鍵曲はかつての面影をそのままにしている。
浜崎地区は、城下町の形成とともに開かれた港町で、近世は北前船の寄港地として廻船業と水産業で栄えところ。大正から昭和初期には水産加工業や夏みかん等の積み出し港として繁栄した。江戸時代からの街路、敷地割がよく遺っており、江戸時代から昭和初期に建てられた町家が数多く見られ、萩藩の港の施設として1608(慶長13)年萩城築城後まもなく建てられた旧萩藩御船倉(おふなぐら)*13もある。

みどころ
ここでのみどころとして、毛利家関連の史跡・建造物や幕末・維新に活躍した志士たちの旧宅や生誕地はもちろん興味深い。しかしなんといっても、趣ある白壁や土塀と石垣の小路をそぞろ歩きをすることだろう。土塀の内には士族の生活の支えとして植えられたという夏みかんの木々が繁茂し、町並みに穏やかな調和を生み出しており、風格のある城下町の景観を形造っている。
平安古地区では、旧田中別邸の五松閣の縁から眺める橋本川と別邸の船着場、庭園の景観はゆったりとして心を落ち着かせる。別邸の北側にある平安古鍵曲は、まさに江戸時代にタイムスリップをしたような光景だ。浜崎地区では、かつての船倉や港らしい町割りや商家の建物を見て歩くのが楽しい。
平安古地区では、旧田中別邸の五松閣の縁から眺める橋本川と別邸の船着場、庭園の景観はゆったりとして心を落ち着かせる。別邸の北側にある平安古鍵曲は、まさに江戸時代にタイムスリップをしたような光景だ。浜崎地区では、かつての船倉や港らしい町割りや商家の建物を見て歩くのが楽しい。

補足情報
*1 萩藩:長門国萩(現・山口県萩市)を本拠地とする外様の大藩で、長州藩とも呼ばれる。1863年(文久3)年に山口へ拠点を移してからは山口藩と改称した。萩藩祖である毛利輝元は、豊臣政権下では中国地方で約112万石を領していたが、関ヶ原の戦で西軍に加わり周防・長門2カ国約36万石に減封となり、1604年(慶長9)本拠地として萩に築城。すでに家督を長男秀就(ひでなり)に譲っていたので、初代藩主は秀就とされる。以後、明治期の廃藩置県まで14代にわたる。表高は約36万石。支藩としては長府・徳山・清末の3藩と後に岩国藩が加わった。
*2 毛利輝元:1553(天文22)~1625(寛永2)年。元就の孫、隆元の長男。豊臣秀吉から112万石の知行目録をうけ、五大老に列したが、関ヶ原の戦いで西軍の盟主となって敗れたため、周防・長門2国に減封され、萩に築城し、広島から移った。隠居したものの、藩政の実権は握っていた。
*3 萩博物館:『萩まちじゅう博物館』 の中核施設として、2004(平成16)年に開館。「萩」をテーマに自然、歴史、民俗等に関する資料を収集、保管、展示している。無料展示である常設展示の「探Qはぎ博」をはじめ歴史展示室、人と自然の展示室、高杉晋作資料室、企画展示室などが設けられている。「探Qはぎ博」以外の入館は有料。
*4 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋:萩城の二の丸南門の南100m。厚狭毛利家の萩屋敷の一部で、その家来たちが住んでいたところという。桁行51.5m、梁間5mの長大な構造をもち、入母屋造、本瓦葺、各所に出格子(でごうし)や格子窓が設けられている。内部は東座敷・中座敷・物置・西座敷・板の間に分かれ、多くの部屋が横一直線に並んでいる。
*5 旧益田家物見矢倉:外堀の菊ヶ浜寄り。永代家老益田家の物見を兼ねた矢倉で1.8mの石垣上に立つ堅固な造りの建物。
*6 「鍵曲(かいまがり)」:左右を高い土塀で囲み、道を直角(鍵の手)に曲げた街路で、一見行き止まりかと思わせるような見通しのきかない独特な道筋となっている。
*7 天樹院(てんじゅいん)墓所:堀内地区にある毛利輝元の墓所。輝元の諡号が「天樹院」。なお、寺院としての天樹院は廃寺となっている。
*8 問田益田氏旧宅土塀:堀内地区、萩高校前に連なる土塀。高さ2.45m、厚さ約0.8m、延長231.7mに及ぶ立派なもの。
*9 木戸孝允旧宅:木戸孝允は1833(天保4)年、萩(長州)藩医和田昌景の長男として生まれる。後に藩士・桂家の養子となり「桂小五郎」と称した。尊皇攘夷派としてリーダーとして活躍。薩長連合も主導。「五箇条の御誓文」の起草や版籍奉還、廃藩置県にも大きく関与。岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。1877(明治10)年病死。旧宅は木戸孝允が約20年間居住した家で、木造瓦葺、2階建。階下に12室、階上に2室があり、孝允誕生の室や勉学室・庭園も旧態を保っている。
*10 高杉晋作誕生地:高杉晋作は1839(天保10)年、萩藩大組士、高杉小忠太の長男として生まれる。幕末の萩(長州)藩士。14歳で藩校明倫館に入学、19歳で松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに学ぶ。萩(長州)藩の討幕派の中心人物として、英米仏蘭四カ国との下関戦争(1863(文久3)年とその翌年)の苦戦の中、民兵組織である奇兵隊を編成。さらに藩内佐幕派との抗争に勝利を収め、その後藩政指導にもあたった。第二次長州征伐では、小倉方面での戦闘を指揮し、軍功をあげたが、1867(慶応3)年に病没した。この旧宅は、高杉晋作が生まれ育った家の一部。平屋建ての民家で、庭に石碑が立ち並ぶ。
*11 菊屋家住宅:高杉家の北東に建つ。代々藩の御用商人を勤めた豪商の家で、江戸初期の造営。主屋、本蔵、金蔵、釜場、米蔵の5棟が国指定重要文化財に指定されている。
*12 旧田中旧別邸:田中義一は、1864(元治元)年に萩(長州)藩士の子として生まれる。陸軍大学校から日清戦争、日露戦争に従軍。後に陸軍大臣、陸軍大将となり、その後立憲政友会総裁となる。1927(昭和2)年、内閣総理大臣に就任し、2年後の1929(昭和4)年に退陣。同年急逝した。
別邸は、もともとは萩(長州)藩の家老毛利筑前の下屋敷だった。明治に入り、萩に夏みかん栽培を主導した小幡高政により、主要建物の骨格が完成し、大正期に入り田中義一の所有となって主屋の増改築が行われた。主屋(五松閣ほか)、土蔵、表門からなる。
*13 旧萩藩御船倉:国指定史跡。藩主の御座船を格納。毛利氏が萩へ移封後まもない慶長年間の後半に建造。
桁行27m、梁間8.8m。両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面には木製扉を有している。往時は松本川に面して4棟の船倉があったと思われるが、現在は住宅街のなかに1棟が残るだけだ。屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構。
*2 毛利輝元:1553(天文22)~1625(寛永2)年。元就の孫、隆元の長男。豊臣秀吉から112万石の知行目録をうけ、五大老に列したが、関ヶ原の戦いで西軍の盟主となって敗れたため、周防・長門2国に減封され、萩に築城し、広島から移った。隠居したものの、藩政の実権は握っていた。
*3 萩博物館:『萩まちじゅう博物館』 の中核施設として、2004(平成16)年に開館。「萩」をテーマに自然、歴史、民俗等に関する資料を収集、保管、展示している。無料展示である常設展示の「探Qはぎ博」をはじめ歴史展示室、人と自然の展示室、高杉晋作資料室、企画展示室などが設けられている。「探Qはぎ博」以外の入館は有料。
*4 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋:萩城の二の丸南門の南100m。厚狭毛利家の萩屋敷の一部で、その家来たちが住んでいたところという。桁行51.5m、梁間5mの長大な構造をもち、入母屋造、本瓦葺、各所に出格子(でごうし)や格子窓が設けられている。内部は東座敷・中座敷・物置・西座敷・板の間に分かれ、多くの部屋が横一直線に並んでいる。
*5 旧益田家物見矢倉:外堀の菊ヶ浜寄り。永代家老益田家の物見を兼ねた矢倉で1.8mの石垣上に立つ堅固な造りの建物。
*6 「鍵曲(かいまがり)」:左右を高い土塀で囲み、道を直角(鍵の手)に曲げた街路で、一見行き止まりかと思わせるような見通しのきかない独特な道筋となっている。
*7 天樹院(てんじゅいん)墓所:堀内地区にある毛利輝元の墓所。輝元の諡号が「天樹院」。なお、寺院としての天樹院は廃寺となっている。
*8 問田益田氏旧宅土塀:堀内地区、萩高校前に連なる土塀。高さ2.45m、厚さ約0.8m、延長231.7mに及ぶ立派なもの。
*9 木戸孝允旧宅:木戸孝允は1833(天保4)年、萩(長州)藩医和田昌景の長男として生まれる。後に藩士・桂家の養子となり「桂小五郎」と称した。尊皇攘夷派としてリーダーとして活躍。薩長連合も主導。「五箇条の御誓文」の起草や版籍奉還、廃藩置県にも大きく関与。岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。1877(明治10)年病死。旧宅は木戸孝允が約20年間居住した家で、木造瓦葺、2階建。階下に12室、階上に2室があり、孝允誕生の室や勉学室・庭園も旧態を保っている。
*10 高杉晋作誕生地:高杉晋作は1839(天保10)年、萩藩大組士、高杉小忠太の長男として生まれる。幕末の萩(長州)藩士。14歳で藩校明倫館に入学、19歳で松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに学ぶ。萩(長州)藩の討幕派の中心人物として、英米仏蘭四カ国との下関戦争(1863(文久3)年とその翌年)の苦戦の中、民兵組織である奇兵隊を編成。さらに藩内佐幕派との抗争に勝利を収め、その後藩政指導にもあたった。第二次長州征伐では、小倉方面での戦闘を指揮し、軍功をあげたが、1867(慶応3)年に病没した。この旧宅は、高杉晋作が生まれ育った家の一部。平屋建ての民家で、庭に石碑が立ち並ぶ。
*11 菊屋家住宅:高杉家の北東に建つ。代々藩の御用商人を勤めた豪商の家で、江戸初期の造営。主屋、本蔵、金蔵、釜場、米蔵の5棟が国指定重要文化財に指定されている。
*12 旧田中旧別邸:田中義一は、1864(元治元)年に萩(長州)藩士の子として生まれる。陸軍大学校から日清戦争、日露戦争に従軍。後に陸軍大臣、陸軍大将となり、その後立憲政友会総裁となる。1927(昭和2)年、内閣総理大臣に就任し、2年後の1929(昭和4)年に退陣。同年急逝した。
別邸は、もともとは萩(長州)藩の家老毛利筑前の下屋敷だった。明治に入り、萩に夏みかん栽培を主導した小幡高政により、主要建物の骨格が完成し、大正期に入り田中義一の所有となって主屋の増改築が行われた。主屋(五松閣ほか)、土蔵、表門からなる。
*13 旧萩藩御船倉:国指定史跡。藩主の御座船を格納。毛利氏が萩へ移封後まもない慶長年間の後半に建造。
桁行27m、梁間8.8m。両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面には木製扉を有している。往時は松本川に面して4棟の船倉があったと思われるが、現在は住宅街のなかに1棟が残るだけだ。屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構。
関連リンク | 萩市(WEBサイト) |
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参考文献 |
萩市(WEBサイト) 「萩の産業遺産群パンフレット」 文化庁「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」堀内・平安古地区 文化庁「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」浜崎地区 文化庁「国指定文化財等データベース」萩城城下町・旧萩藩御船倉(WEBサイト) |
2025年03月現在
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