東光寺とうこうじ

JR山陰本線東萩駅から東へ約2kmの道のり、松陰神社の東、東光寺山の麓に寺域が広がっている。萩藩*1の三代藩主毛利吉就が1691(元禄4)年に建立した寺で、萩市街の西にある大照院と並んで毛利氏の菩提寺である。江戸中期の最盛期には堂塔40棟、僧侶80人を数えたというが、明治維新には寺禄を失い、往時の隆盛はない。しかし、黄檗(おうばく)伽藍様式*2によって、総門*3・三門*4・大雄宝殿(たいおうほうでん)(本堂)*5・鐘楼*6・大方丈書院などの堂宇が遺されている。
 また本堂裏には、元治甲子殉難烈士の墓所*7があり、その奥にはスギ・ヒノキの大樹に囲まれ、約500基の石燈篭を墓前に控えさせた吉就以下奇数代の5藩主およびその夫人の墓がある。
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みどころ

駐車場から、まず目を引くのは、朱塗りの総門である。これをくぐると、石畳の参道が三門を経て大雄宝殿まで、一直線につづく。鐘楼は左手に建つ。この情景を五木寛之は「百寺巡礼」のなかで「総門から一直線に、まるで遠近法の画面のようにこちらに迫ってくる。さすがに大名の菩提寺という風格を感じさせるたたずまいだった。また、どことなく中国風でもある」と描写している。本堂に当たる大雄宝殿の内部に入ると、意匠は中国風で、しかも土間となっている。これについても五木は「読経の際も立ったままでおこなうらしい。これも、中国の明の時代の黄檗宗の方式を、そのまま継承している」と記している。本堂の裏には、森閑とした森になっており、そこにぽっかりとあいた広場には、500基もの石燈籠が並び壮観。その正面が藩主たちの墓所になっている。
 黄檗宗の寺としては、京都の萬福寺がもっとも有名であり、その規模は異なるものの、藩主の菩提寺として地方に根付き、その様式を今に遺していることは興味深い。この文化遺産をしっかりと継承していくためにも、地域を挙げての取り組みが必要であろう。
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補足情報

*1 萩藩:長門国萩(現・山口県萩市)を本拠地とする外様の大藩で、長州藩とも呼ばれ、る。1863年(文久3)年に山口へ拠点を移してからは山口藩と改称した。周防・長門2カ国を領有。毛利家14代当主輝元は、豊臣政権下では中国地方で約112万石を領していたが、関ケ原の戦で西軍に加わり周防・長門2カ国に減封となり、1604年(慶長9)本拠地として萩に築城。すでに家督を長男秀就(ひでなり)に譲っていたので、初代藩主は秀就とされる。以後、明治期の廃藩置県まで14代にわたる。表高は約37万石。支藩としては長府・徳山・清末の3藩と後に岩国藩が加わった。
*2 黄檗(おうばく)伽藍様式:中国の明代末期に中国とくに福建地方から影響を受け、形成された江戸時代の新たな伽藍様式。建造物は主要伽藍を中心軸上に配置し、同じ大きさの堂宇が左右対称に配されているのが特徴。「卍字くずし」が使われた勾欄、アーチ形の「黄檗天井」、円形の窓など意匠も独特のもの。江戸前期の黄檗宗が各地に広まった時期の伽藍としては、同寺はいちばん整ったものだとされる。
*3 総門:1693(元禄6)年の建立と推定される3間2戸の八脚門。切妻造、本瓦葺の屋根は中央持ち上げ棟式で、異国的である。全体には紅がらが塗ってある。
*4 三門:1812(文化9)年の建立。ケヤキの素木造で、3間3戸、重層、左右に山廊をつけた唐様の大きな門である。屋根は入母屋造、本瓦葺。
*5 大雄宝殿(本堂):正面5間、側面4間、単層裳階(もこし)付き、入母屋造、本瓦葺。広壮な黄檗寺院建築の特徴を備えた唐様建築で、1698(元禄11)年の建立である。
*6 鐘楼:1696(元禄9)~1710(宝永7)の建立。桁行三間、梁間一間、一重二階裳階付、入母屋造、本瓦葺、桟瓦葺。
*7 元治甲子殉難烈士の墓所:1864(元治元)年京都で起った禁門の変の際、幕府への謝罪のために自刃あるいは反対派に処刑された「十一烈士」などをはじめ幕末に殉じた藩士を慰霊する墓所。
関連リンク 東光寺(WEBサイト)
参考文献 東光寺(WEBサイト)
文化庁「国指定文化財等ベータベース」大雄宝殿等(WEBサイト)
萩市観光協会「HAGI」東光寺(WEBサイト)
山川出版社「山川 日本史小辞典」
五木寛之「百寺巡礼 第八巻山陰・山陽」 講談社 Kindle 版

2025年03月現在

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