松下村塾
松下村塾は、JR山陰本線東萩駅から南東へ約1.4kmの道のりの松陰神社境内の中央にある。吉田松陰(よしだしょういん)*1の父の弟である玉木文之進が、この地より約600m東にある自宅に私塾を開いたのが起こりで、松陰が幕末・明治維新の人材を育てたところとして名高い。
松陰がこの塾を継いだのは、実家杉家において幽囚の身であった1857(安政4)年11月で、実家の宅地内にあった小屋を改造し、八畳間の講義室を設け、指導にあたったのがこの地であった。時に松陰27歳、数十人の門弟に対し書を講じ、時事を論じた。とくに兵学の観点から海防を重視し、自力での産業近代化の実現を図るべきだと説いた。同塾で教育・指導にあたったのは1858(安政5)年12月に再投獄されるまでのわずか1年ほどで、実家での幽囚期間の指導を含めても2年半余りであった。ここで塾生として学んだ人々には、高杉晋作*2、久坂玄瑞*3をはじめ、伊藤博文*4、山県有朋*5、品川弥二郎*6などがおり、尊皇攘夷運動、さらには討幕・明治維新の原動力のひとつとなった。
松下村塾の建物は木造平屋建て、瓦葺で、当初からの8畳の間と、増築した4畳半・3畳2間・土間などが遺されている。なお、松下村塾自体は、1892(明治25)年に松陰の実兄杉民治が閉塾するまで断続的に閉鎖再開をくり返しながらも継承された。隣接して吉田松陰幽囚ノ旧宅(実家の杉家)も遺されている。また、1907(明治40)年には、松下村塾出身の伊藤博文などが中心となって、松下村塾の隣接地に松陰神社の創建を請願し県社として認められ、本殿などが設けられて現在に至っている。さらに1956(昭和31)年には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰の門下生42柱*7を祭神とする末社・松門神社が建立されている。
松陰神社の境内には、宝物殿の至誠館、吉田松陰歴史館などがあり、松陰及び松下村塾に関する史・資料の収蔵、解説展示が行われている。
松陰がこの塾を継いだのは、実家杉家において幽囚の身であった1857(安政4)年11月で、実家の宅地内にあった小屋を改造し、八畳間の講義室を設け、指導にあたったのがこの地であった。時に松陰27歳、数十人の門弟に対し書を講じ、時事を論じた。とくに兵学の観点から海防を重視し、自力での産業近代化の実現を図るべきだと説いた。同塾で教育・指導にあたったのは1858(安政5)年12月に再投獄されるまでのわずか1年ほどで、実家での幽囚期間の指導を含めても2年半余りであった。ここで塾生として学んだ人々には、高杉晋作*2、久坂玄瑞*3をはじめ、伊藤博文*4、山県有朋*5、品川弥二郎*6などがおり、尊皇攘夷運動、さらには討幕・明治維新の原動力のひとつとなった。
松下村塾の建物は木造平屋建て、瓦葺で、当初からの8畳の間と、増築した4畳半・3畳2間・土間などが遺されている。なお、松下村塾自体は、1892(明治25)年に松陰の実兄杉民治が閉塾するまで断続的に閉鎖再開をくり返しながらも継承された。隣接して吉田松陰幽囚ノ旧宅(実家の杉家)も遺されている。また、1907(明治40)年には、松下村塾出身の伊藤博文などが中心となって、松下村塾の隣接地に松陰神社の創建を請願し県社として認められ、本殿などが設けられて現在に至っている。さらに1956(昭和31)年には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰の門下生42柱*7を祭神とする末社・松門神社が建立されている。
松陰神社の境内には、宝物殿の至誠館、吉田松陰歴史館などがあり、松陰及び松下村塾に関する史・資料の収蔵、解説展示が行われている。

みどころ
松陰神社の駐車場から、鳥居を潜ると、まっすぐ参道は伸びるが、左手に吉田松陰歴史館、その先に進むと右手にシンプルだが白色基調の宝物殿至誠館がみえる。その前に、木造平屋の質素な造りの小さな建物が建っている。これが松下村塾だ。日中は大きく障子、雨戸が開かれているので、室内までよく見渡せる。幕末の混乱期に、松陰を中心にあらゆることをどん欲に学ぼうとしていた、萩(長州)藩を中心とした、若者達の息吹が質素な建物であるがゆえに余計に伝わってくる。
すぐ隣には松陰が幽囚となっていた杉家の住宅も遺されており、こちらも決して豊かな藩士ではなかったことがわかる。明治維新という近代日本の幕開けに向けた一シーンがここで繰り広げられた。是非一度訪れてみると良いだろう。
なお、松陰神社の本殿や末社・松門神社は、さらに参道を進んだ先となる。周辺には吉田松陰生誕地・墓所、伊藤博文旧宅、毛利家の墓所がある東光寺などがある。
すぐ隣には松陰が幽囚となっていた杉家の住宅も遺されており、こちらも決して豊かな藩士ではなかったことがわかる。明治維新という近代日本の幕開けに向けた一シーンがここで繰り広げられた。是非一度訪れてみると良いだろう。
なお、松陰神社の本殿や末社・松門神社は、さらに参道を進んだ先となる。周辺には吉田松陰生誕地・墓所、伊藤博文旧宅、毛利家の墓所がある東光寺などがある。

補足情報
*1 吉田松陰(よしだしょういん):1830(天保元)~1859(安政6)年。萩藩の下級武士杉家に生まれる。山鹿流兵学師範吉田家を継ぎ、19歳で独立師範となるも、無許可の東北遊歴を咎められ、士籍を削られる。外国の脅威を感じ、海外渡航の志を立て、1854(安政元)にペリー艦隊へ同行を求めたが果たせず、自訴。江戸伝馬町の牢獄から萩の野山獄に移送。出獄後実家杉家で幽囚生活を送る。その間も書物を漁り、講義、指導を行い、1857(安政4)年11月に松下村塾の主宰を引き継ぐ。しかし、老中暗殺を画策したとして1858(安政5)年12月に再投獄。翌年刑死した。
*2 高杉晋作:1839(天保10)~1867(慶応3)年。幕末の萩(長州)藩士。1857(安政4)年藩校明倫館に入学、次いで松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに学ぶ。萩(長州)藩の討幕派の中心人物として、英米など四カ国との下関戦争(1863(文久3)年とその翌年)の苦戦の中、民兵組織である奇兵隊を編成。さらに藩内佐幕派との抗争に勝利を収め、その後藩政指導にもあたった。第二次長州征伐では、小倉方面での戦闘を指揮し、軍功をあげたが、1867(慶応3)年に病没した。
*3 久坂玄瑞(くさかげんずい):1840(天保11)~1864(元治元)年。吉田松陰の門下生。松陰の妹と結婚。松陰が処刑された後、松下村塾生の結束の中心となった。萩(長州)藩の尊皇攘夷運動を主導したが、禁門の変(1864(元治元)年)で敗れ、京都で自刃。
*4 伊藤博文:1841(天保12)~1909(明治42)年。農民の子として生まれたが、萩(長州)藩の下級武士の伊藤家の養子となる。松下村塾で吉田松陰に学び尊王攘夷運動に参加し、1863(文久3)年に井上聞多(馨)らとひそかにイギリス留学。のちに岩倉遣外使節団の副使としても欧米を視察。明治政府の開明派として改革を進め、大日本帝国憲法発布に尽力、初代の内閣総理大臣となった。公爵。韓国統監も歴任。統監を辞任後、ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に狙撃され死亡した。
*5 山県有朋:1838(天保9)~1922(大正11)年。萩(長州)藩の下級武士の出身。松下村塾に学び、21歳のとき藩命で京都に派遣され、尊王攘夷運動に参加。1863(文久3)年奇兵隊軍監となった。維新後は国軍創設に尽力、陸軍の枢要なポストを歴任。その後、陸軍大将、枢密院議長、元帥、さらには内閣総理大臣などの経歴を積み上げ、軍部、政界のトップを極めた。
*6 品川弥二郎:1843(天保14)~1900(明治33)年。萩(長州)藩士の子として生まれる。1857(安政4年)松下村塾に入塾。尊皇攘夷運動に奔走。文久2(1862)年イギリス公使館焼討事件に参加。欧州留学後、内務、農商務などの官僚を務め、枢密院顧問などを経て内務大臣となる。
*7 42柱:現在は、沼崎吉五郎をはじめ11柱が追合祀され53柱が祀られている。
*2 高杉晋作:1839(天保10)~1867(慶応3)年。幕末の萩(長州)藩士。1857(安政4)年藩校明倫館に入学、次いで松下村塾に入り、久坂玄瑞とともに学ぶ。萩(長州)藩の討幕派の中心人物として、英米など四カ国との下関戦争(1863(文久3)年とその翌年)の苦戦の中、民兵組織である奇兵隊を編成。さらに藩内佐幕派との抗争に勝利を収め、その後藩政指導にもあたった。第二次長州征伐では、小倉方面での戦闘を指揮し、軍功をあげたが、1867(慶応3)年に病没した。
*3 久坂玄瑞(くさかげんずい):1840(天保11)~1864(元治元)年。吉田松陰の門下生。松陰の妹と結婚。松陰が処刑された後、松下村塾生の結束の中心となった。萩(長州)藩の尊皇攘夷運動を主導したが、禁門の変(1864(元治元)年)で敗れ、京都で自刃。
*4 伊藤博文:1841(天保12)~1909(明治42)年。農民の子として生まれたが、萩(長州)藩の下級武士の伊藤家の養子となる。松下村塾で吉田松陰に学び尊王攘夷運動に参加し、1863(文久3)年に井上聞多(馨)らとひそかにイギリス留学。のちに岩倉遣外使節団の副使としても欧米を視察。明治政府の開明派として改革を進め、大日本帝国憲法発布に尽力、初代の内閣総理大臣となった。公爵。韓国統監も歴任。統監を辞任後、ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に狙撃され死亡した。
*5 山県有朋:1838(天保9)~1922(大正11)年。萩(長州)藩の下級武士の出身。松下村塾に学び、21歳のとき藩命で京都に派遣され、尊王攘夷運動に参加。1863(文久3)年奇兵隊軍監となった。維新後は国軍創設に尽力、陸軍の枢要なポストを歴任。その後、陸軍大将、枢密院議長、元帥、さらには内閣総理大臣などの経歴を積み上げ、軍部、政界のトップを極めた。
*6 品川弥二郎:1843(天保14)~1900(明治33)年。萩(長州)藩士の子として生まれる。1857(安政4年)松下村塾に入塾。尊皇攘夷運動に奔走。文久2(1862)年イギリス公使館焼討事件に参加。欧州留学後、内務、農商務などの官僚を務め、枢密院顧問などを経て内務大臣となる。
*7 42柱:現在は、沼崎吉五郎をはじめ11柱が追合祀され53柱が祀られている。
関連リンク | 松陰神社(WEBサイト) |
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参考文献 |
松陰神社(WEBサイト) 文化庁「国指定文化財等データベース」松下村塾(WEBサイト) 萩市 「明治日本の産業革命遺産」世界遺産に登録 萩エリア~萩市の資産 松下村塾」(WEBサイト) 至誠館パンフレット 「山口県の歴史散歩」山川出版社 |
2025年03月現在
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