大照院
JR山陰本線萩駅から西へ約1kmに位置する臨済宗南禅寺派の寺院。萩藩7代*1にわたる藩主夫妻が墓地に眠ることで名高い。
1651(慶安4)年に亡くなった萩藩初代藩主毛利秀就(ひでなり)*2は、当時歓喜寺*3と呼ばれていた当寺に葬られた。2代藩主綱広(つなひろ)は父の菩提を弔うため寺の改築を始め、1656(明暦2)年に完工。亡き父の法号にちなんで寺名を大照院に改めた。1747(延享4)年の火災で伽藍を焼失したが、1750(寛延3)年に6代藩主宗広(むねひろ)が再建、今にいたる。
1651(慶安4)年に亡くなった萩藩初代藩主毛利秀就(ひでなり)*2は、当時歓喜寺*3と呼ばれていた当寺に葬られた。2代藩主綱広(つなひろ)は父の菩提を弔うため寺の改築を始め、1656(明暦2)年に完工。亡き父の法号にちなんで寺名を大照院に改めた。1747(延享4)年の火災で伽藍を焼失したが、1750(寛延3)年に6代藩主宗広(むねひろ)が再建、今にいたる。

みどころ
参道を進むと、剛健で、格式の高さを感じさせる鐘楼門*4が迎えてくれる。門をくぐると、正面に本堂、右手に庫裏*5、左手の少し奥まったところに経蔵*6が建ち、本堂と庫裏の裏手には書院が続く。経蔵脇の小道をたどれば、萩藩毛利家藩主の墓所に続く。ここでのみどころは、重臣やゆかりの人々が献上した603基の石灯籠だろう。毎年、8月13日の万燈会の夜には、灯籠に蝋燭が灯される。(危険なため灯籠には絶対に近づかないこと)

補足情報
*1 7藩主夫妻の墓所:初代 秀就・喜佐姫、2代 綱広・千姫、4代 吉広(よしひろ)・小石姫、6代 宗広(むねひろ)・勝姫、8代 治親(はるちか)・節姫、10代 斉熈(なりひろ)・三津姫、12代 斉広(なりとう)・和姫
*2 萩藩(毛利家):戦国時代、毛利元就の頃には山陽、山陰の10ヶ国を制していたが、輝元が関ケ原の戦で西軍に加わったことから周防・長門2カ国に減封、城も広島から萩へ移され、1604年(慶長9)年に萩城が完成。すでに家督を長男秀就に譲っていたので、初代藩主は秀就とされる。
*3 歓喜寺:大照院の歴史は古く、延暦年間(782~805年)に月輪山観音寺という寺院が、現在の地にあったという。鎌倉時代の建武(1334~1335年)の頃には、鎌倉長建寺の義翁和尚が臨済宗を伝え、寺名を大椿山歓喜寺に改めた。
*4 鐘楼門:重要文化財。1750(寛延3)年建立。建物面積31.25m2、桁行7.66m、梁間4.08m
*5 庫裏:重要文化財。建物面積264.7m2、桁行16.35m、梁間16.19m、切妻造り、本瓦葺き
*6 経蔵:重要文化財。1763(宝暦13)年建立。建物面積74.29m2、桁行6.7m、梁間6.7m
*2 萩藩(毛利家):戦国時代、毛利元就の頃には山陽、山陰の10ヶ国を制していたが、輝元が関ケ原の戦で西軍に加わったことから周防・長門2カ国に減封、城も広島から萩へ移され、1604年(慶長9)年に萩城が完成。すでに家督を長男秀就に譲っていたので、初代藩主は秀就とされる。
*3 歓喜寺:大照院の歴史は古く、延暦年間(782~805年)に月輪山観音寺という寺院が、現在の地にあったという。鎌倉時代の建武(1334~1335年)の頃には、鎌倉長建寺の義翁和尚が臨済宗を伝え、寺名を大椿山歓喜寺に改めた。
*4 鐘楼門:重要文化財。1750(寛延3)年建立。建物面積31.25m2、桁行7.66m、梁間4.08m
*5 庫裏:重要文化財。建物面積264.7m2、桁行16.35m、梁間16.19m、切妻造り、本瓦葺き
*6 経蔵:重要文化財。1763(宝暦13)年建立。建物面積74.29m2、桁行6.7m、梁間6.7m
関連リンク | 大照院(WEBサイト) |
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参考文献 |
大照院(WEBサイト) 山口県文書館 編修「防長風土注進案第20巻」マツノ書店 1983年 143頁 81/338国立国会図書館デジタルコレクション 「重要文化財 大照院本堂及び経蔵 保存修理工事報告書」平成29年 大照院 文化庁「文化遺産データベース」本堂・庫裏・書院・鐘楼門・経蔵・萩藩主毛利家墓所(WEBサイト) |
2025年03月現在
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