竹林院群芳園
近鉄吉野線吉野駅前の千本口駅からロープウェイに乗り、約3分の吉野山駅下車、そこから吉野山上の尾根道を約1.6km進んだところにある。寺伝によると、竹林院は聖徳太子が創建し、のちに空海が入峰の折に一宇を設け椿山寺としたと伝わる。記録に残されているものとしては、平安期の史書「扶桑略記」に「道賢(今名日藏*1)以去延喜十六(916)年春二月。年十有二。初入此金峯山。即於發心門椿山寺剃髪。」として、道賢が12歳のとき「椿山寺」にて出家し、修行に励んだとされている。その後、後小松天皇の勅命により寺号が竹林院と改められたという。天正年間(1572~92)の住職尊祐は、大弓法師と呼ばれ、弓道竹林流の始祖となったことでも知られている。1874(明治7)年に廃寺となったが、その後復興し、現在は修験道の単立寺院であるとともに宿坊(政府登録国際観光旅館)となっている。
敷地内には広大な池泉回遊式庭園「群芳園」が広がる。この庭園は室町時代末期、第21代住職・祐尊が大峰山上にも宿坊竹林院を設けた折、大峰山の景を映して築いたのが始まりと伝えられている。その後、豊臣秀吉の吉野山観桜の折に細川幽斎が改修したとも伝えられている。周囲の山を借景としてシロヤマザクラ、シダレザクラ、ツバキなどが植えられている。入園有料(宿泊者無料)。
敷地内には広大な池泉回遊式庭園「群芳園」が広がる。この庭園は室町時代末期、第21代住職・祐尊が大峰山上にも宿坊竹林院を設けた折、大峰山の景を映して築いたのが始まりと伝えられている。その後、豊臣秀吉の吉野山観桜の折に細川幽斎が改修したとも伝えられている。周囲の山を借景としてシロヤマザクラ、シダレザクラ、ツバキなどが植えられている。入園有料(宿泊者無料)。

みどころ
群芳園は、宿坊や寺の建物の裏手に池を中心に築かれており、その背後の高みに向かって植栽が続く。園路に沿って高みに登ると東屋がある。そこからは、金峯山寺蔵王堂の甍や吉野の山並みを眺望することができる。江戸時代には多くの文人墨客の宿泊を受け入れたが、そのうちの本居宣長は「菅笠日記」の中で「花とのみおもい入りぬる吉野山よものながめもたぐひやはある」と詠んでいる。1713(正徳3)年の貝原益軒の「和州吉野山勝景図」にも、この植栽と高みの様子が描き込まれている。また、明治期のガイドブック「大和名勝」にも「庭園中の少丘に登れば、山の西北の方を望み得。櫻樹多し。その庭には躑躅あり泉石あり」と紹介している。こうした庭園の景観を与謝野晶子は「山の鳥竹林院の林泉を楽しむ朝となりにけるかな」と詠み、与謝野鉄幹も「み吉野の竹林院の静かなり花なき後もここに在らばや」と合わせている。与謝野晶子は、この竹林院を定宿として愛し、「君に文書かんと借りにしみよし野の竹林院の大硯かな」「美よし野や竹林院にひと夜ねて花にきつねのなく聲ききぬ」など多くの歌を残している。

補足情報
*1 日藏:初めは道賢と名乗り、後に日蔵と改めた。905~967あるいは985年(生没不詳)。平安中期の修験僧。如意輪寺の開祖でもある。「扶桑略記」によると、941(天慶4)年金峯山で修法中に息絶え、蔵王菩薩に導かれて浄土に至るが、蘇生するという伝説を残している。また「宇治拾遺物語 巻11」では「日藏上人吉野山にて鬼にあふ事」という説話に登場している。
2024年12月現在
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