興福寺こうふくじ

境内の南側から入るのならば、近鉄奈良線奈良駅からアーケードの東向商店街を南下し、三条通りを西へ。駅から約500mで五重塔のたもとに着く。北側からならば、近鉄奈良駅から大宮通り(登大路)を東へ300mのところが北参道の入口になる。
 約2万5,000坪(約8万2,500m2)に及ぶ境内には、仕切りの塀もない松林の中に、中金堂*1・東金堂*2・北円堂*3・南円堂*4・五重塔*5・三重塔*6・国宝館*7などの堂塔が点在している。たびたびの兵火や火災にかかり、明治の廃仏毀釈の影響もあって、創建当初の堂塔は遺ってはいないものの、鎌倉時代から現代まで、それぞれの時代に再建された堂塔が建ち並び、天平彫刻をはじめとする数多くの仏像、寺宝が伝わっている。
 興福寺は、藤原鎌足*8の病気回復を祈願し、夫人の鏡女王が山背国山階(現・京都市山科)に建てた山階寺*9を前身とする。その後飛鳥地方に遷り、厩坂寺と名を改め、さらに710(和銅3)年の平城遷都に伴い、鎌足の子藤原不比等*10によって現在地*11へ遷され、寺号も興福寺となった。
 伽藍の造営・整備は、遷都後から霊亀・養老年間(715~724年)にかけて順次行われた。その後、藤原氏の権勢はさらに強まり皇室との縁組みも行い、東金堂・五重塔などが建立された。このため官寺として遇され、南都七大寺*12の一つに列するようになった。古代・中世を通じて大和一円に権勢を張り、春日大社の実権も握り神仏習合を進め、鎌倉時代や室町時代には大和国には守護が置かれず興福寺がその任を担っていた。しかし、そのため戦乱に巻き込まれることもあり、とくに1180(治承4)年の平氏の南都焼討ち*13では主要な堂塔を失った。この時の再興にあたっては、院派、円派、慶派*14などの有力仏師が造仏の腕を競った。その後も何度か火災に遭い、その都度復興をくり返した。しかし、江戸時代の1717(享保2)年の大火の際には、すでに復興の力はなく、さらに明治の廃仏毀釈では一時的に廃寺同様となり、境内の大部分を失ったこともあった。
 1881(明治14)年に至り、寺号の回復が許され境内地の回復も果たし、明治後期には文化財保護のため堂宇や仏像の修理保全が行われるようになった。第二次世界大戦後も国宝館(宝物収蔵庫)の建設や諸堂の改築、解体修理が実施され、2018(平成30)年には、1717(享保2)年の大火で失った中金堂が本来の規模で再建された。
 年中行事としては、2月節分の追儺会*15、5月第3金・土曜日の薪御能*16、11月13日の慈恩会*17などがある。
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みどころ

興福寺は猿沢池側の三条通りからも、北側の大宮通り(登大路)からもすぐ寺内に入ることができる。境内を歩く順路がとくにあるわけではない。それでも、三条通りからなら、まず南大門跡に立つべきだろう。正面に中金堂、右手に五重塔(現在は修理中のため姿は見られない。2031年3月完成予定)・東金堂が並ぶ。同寺のランドマークになる五重塔は、司馬遼太郎が評しているように薬師寺の東塔や法隆寺の五重塔のような「天をめざすするどさ」はないが、どっしりとしたシルエットはこの街の重しになっているのではないかとさえ思わせる。興福寺は院派、円派、慶派などが腕を競った素晴らしい仏像も所蔵しているが、必見はなんといっても国宝館に安置される「阿修羅像」をはじめとする天平仏だろう。 司馬遼太郎はとくに「阿修羅像」を「相変らず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心もとなさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも、聖なるものを感じてしまった心のとまどいをあらわしている。」と評し、百済からの渡来人である仏師の彫像技術の高さとその精神性の深さを絶賛している。
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補足情報

*1 中金堂:714(和銅7)年に藤原不比等が創建したという。現在の建物は2018(平成30)年の再建。本尊は木造釈迦如来像で江戸時代後期の作。拝観有料。
*2 東金堂:国宝。726(神亀3)年、聖武天皇が叔母の元正上皇の病気快癒を祈願し建立。その後5度の被災、再建が繰り返され、現在の建物は1415(応永22)年の再建のもの。寄棟造で、創建当初の奈良時代の雰囲気を遺しているといわれている。堂内には国指定の重要文化財で室町期の本尊銅造薬師如来坐像(像高255cm)などが安置されている。拝観有料。
*3 北円堂:国宝。藤原不比等の1周忌の721(養老5)年に元明・元正天皇の発願で建立。現在の建物は、1180(治承8)年の被災後、1210(承元4)年頃の再建といわれている。本尊は国宝の木造弥勒如来坐像(像高約142cm)。寄木造。春と秋のみ公開。
*4 南円堂:国指定重要文化財。西国三十三所観音霊場の第9番札所。813(弘仁4)年に嵯峨天皇の信任が篤かった左大臣藤原冬嗣が父親の内麻呂追善のため建立。現在の建物は1789(寛政元)年の再建。本尊は国宝の木造不空羂索観音菩薩坐像(像高336cm)。寄木造。10月17日のみ公開。
*5 五重塔:国宝。平安期の史書「扶桑略記」によると、天平2年(730年)4月28日の条で「立興福寺塔。藤原皇后。並中衛大将藤原房前等。自臨彼伽藍。率文武官持簣運土。建五重寶塔一基。」と記しており、藤原不比等の娘・光明皇后が発願し、不比等の3男房前は、自ら文武官を率いてもっこで土を運び建立したとしている。現在の塔は、1426(応永33)年に再建されたもの。高さ約50m。木造の塔としては京都東寺の五重塔に次ぐ高さ。2022年度に約120年ぶりとなる大規模修理を開始、工事完了は2031年3月の予定。
*6 三重塔:国宝。崇徳天皇の中宮、皇嘉門院聖子により、1143(康治2)年に建てられたが、間もなく焼失し、現在のものは12世紀後半の再建。平安期の建築様式がよく遺されているといわれている。子院の世尊院にあった弁財天坐像などが安置されている。7月7日のみ開帳。
*7 国宝館:旧食堂の跡に1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造の耐火式宝物収蔵庫として建設。地下には旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されている。館内には、仏像、絵画、工芸品、典籍古文書、考古遺物などを収蔵、公開している。国宝である木造千手観音立像や、阿修羅像などの乾漆八部衆立像8躯をはじめ、乾漆十大弟子立像6躯、華原磬、銅造仏頭(旧東金堂本尊)、木造十二神将立像12躯、木造天燈鬼・龍燈鬼立像2躯、板彫十二神将立像12面、木造金剛力士立像2躯などが安置、公開されている。入館有料。
*8 藤原鎌足:614~669年。中臣鎌足。藤原氏の祖。中大兄皇子(天智天皇)の側近として専横していた蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化改新を主導した。死に際して大織冠内大臣の位と藤原朝臣姓を賜った。
*9 山階寺:やましなでら。平安時代前期の「興福寺縁起」では天智天皇「即位二年」10月(662年に即位しないまま新帝となっていたため、「日本書紀」等では天智天皇8年・西暦669年)に「内大臣(藤原鎌足)枕席不安。嫡室鏡女王請曰。敬造伽藍安置尊像。大臣不許。再三請。及許。因茲開基山階。」と、鎌足の病気回復を祈願するため、夫人の鏡女王が寺院の建立を再三請い、実現したと記されている。
*10 藤原不比等:659~720年。藤原鎌足の第2子、光明皇后の父。大宝律令の撰定に参加。右大臣。天皇家との縁組みなどにより藤原一族の専権傾向を強めた。没後、太政大臣を追贈された。
*11 現在地:「興福寺縁起」には「和銅三年(710年)歳次庚戌太上天皇俯従人願。定都平城。於是太政大臣(藤原不比等)相承先志。簡春日之勝地立興福之伽藍也」と、平城京の遷都に従い、勝地である春日の地に興福寺の伽藍を建立したと記されている。
*12 南都七大寺:東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。法隆寺を唐招提寺とする場合もある。
*13 平氏の南都焼討ち:1180(治承4)年、反平氏勢力が蜂起したとき,南都の興福寺、東大寺の堂衆も立ち上がったため、平重衡が東大寺・興福寺を攻め、その際の戦火で興福寺のほとんどの伽藍が焼失した。
*14 院派、円派、慶派:院派は仏師定朝の嗣子覚助(?~1077年)の弟子院助(?~1109年)からの流れの仏師集団。活動範囲は、宮廷・摂関家を中心とした京都を中心に鎌倉にまで及んでいた。興福寺では講堂を担当した。円派は仏師定朝の弟子長勢(1010~1091年)の系統の仏師集団。白河・鳥羽両上皇に重用され主に京都で活躍した。興福寺では中金堂を担当した。
 慶派は覚助の系譜につながる仏師の一派で、康慶、運慶親子などで知られる。南都を中心に活動していたので南都仏師ともいわれた。興福寺の再建では一門の仏師たちが頭角を現すこととなり南円堂などを担当し、東大寺でも復興造仏の中心を担った。写実的で緊張感があり、清新な鎌倉期を代表する作風を確立した。
*15 追儺会:毎年2月節分の日に開催。東金堂の薬師如来の前で除災招福の法要を行い、そのあと、鬼追いの儀式、豆まき行事が催される。
*16 薪御能:5月の第3金・土曜日の両日、南大門跡の「般若の芝」で開催。野外能の初元とされ、869(貞観11)年の西金堂の修二会における咒師の祈祷所作に始まるとされる。後に観世、金春流の猿楽に繋がり、南北朝以降に芸術性がより高まり能楽へと繋がっていったといわれる。現在の薪御能は金春、金剛、宝生、観世の四座が一堂に会する。主催は奈良市観光協会。観覧可能(有料)。なお、10月の第1土曜日には「興福寺塔影能」が開催される。東金堂の本尊薬師如来に能狂言を奉納するもの。舞台を正面から見ることはできないが、観覧は可能(問合せは本坊寺務所へ)。
*17 慈恩会:11月13日19時から興福寺仮講堂で行われる。951(天暦5)年に始まったといわれる。教学を深めるための論議、問答を中心に行う法要で、参拝、聴聞は可能。薬師寺と合同で行われ、偶数年は薬師寺で、奇数年は興福寺で行われる。

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