春日大社
御蓋山(みかさやま)*1の麓、春日山原始林から続く深い杜の中に鎮座する古社。近鉄奈良線奈良駅から800mほどの興福寺境内のすぐ東に立つ一之鳥居*2から本社までさらに1300mほど続く表参道は、浅茅(あさじ)ヶ原、飛火野を通って行く。参道に燈籠が徐々に増え、二之鳥居を過ぎれば、両側に石燈籠が林立して、本社の南門*3へと導かれる。本殿*4をはじめ主要な社殿が立つ本社は回廊で囲まれており、自然の地形を利用して建物を配置している。北東の一郭は御廊(おろう)と瑞垣で区切られ、4棟の本殿が南向き横一列に並んでいる。本社をとり囲む朱塗の回廊は豊かな緑の木立に映え、軒に下がる無数の釣燈籠や、桧皮葺の社殿*5が、藤原時代の栄華を偲ばせる。また平安時代の信仰、文化、風俗を伝える、多数の祭事が行われ、神宝も国宝殿*6などで公開されている。
春日大社の歴史は、この地がもともと御蓋山を中心とする聖地*7であったことから、平城京に遷都された折に、常陸国(茨城県)鹿島の武甕槌命*8を勧請して、平城京鎮護のためにこの聖地に祀り、春日の神と称したのが始まりと伝えられる。768(神護景雲2)年には称徳天皇の勅命で藤原永手*9が社殿を造営し、下総国(千葉県)香取の経津主命*10、藤原氏の祖神である河内国(大阪府)枚岡の天児屋根命*11と、比売神*12を加えて4神を祀り、官社として認められた。朝廷の崇敬は篤く、都が京都へ遷っても、藤原氏の隆盛も相まって盛んに社殿の造営が行われ、平安前期に現在のような社殿の規模を整えた。式年造替*13も行われるようになり、1135(保延元)年には春日若宮*14も創建された。こうした背景のなか、平安時代に入って貴族の「春日詣」*15が流行した。興福寺との関わりも深く、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて朝廷に強訴*16したことはよく知られている。
年中行事としては2月節分と8月14・15日の万燈籠*17、3月13日の春日祭(申祭)*18、12月15~18日の春日若宮おん祭などがある。
春日大社の歴史は、この地がもともと御蓋山を中心とする聖地*7であったことから、平城京に遷都された折に、常陸国(茨城県)鹿島の武甕槌命*8を勧請して、平城京鎮護のためにこの聖地に祀り、春日の神と称したのが始まりと伝えられる。768(神護景雲2)年には称徳天皇の勅命で藤原永手*9が社殿を造営し、下総国(千葉県)香取の経津主命*10、藤原氏の祖神である河内国(大阪府)枚岡の天児屋根命*11と、比売神*12を加えて4神を祀り、官社として認められた。朝廷の崇敬は篤く、都が京都へ遷っても、藤原氏の隆盛も相まって盛んに社殿の造営が行われ、平安前期に現在のような社殿の規模を整えた。式年造替*13も行われるようになり、1135(保延元)年には春日若宮*14も創建された。こうした背景のなか、平安時代に入って貴族の「春日詣」*15が流行した。興福寺との関わりも深く、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて朝廷に強訴*16したことはよく知られている。
年中行事としては2月節分と8月14・15日の万燈籠*17、3月13日の春日祭(申祭)*18、12月15~18日の春日若宮おん祭などがある。
みどころ
奈良市の中心街からの参拝の順路としては一之鳥居から入り、奈良公園の園地になっている浅茅ヶ原、広々とした飛火野の景観を楽しみながら萬葉植物園を経て、国宝殿に向かうのが良い。この辺りはシカたちともよく遭遇できる。国宝殿では、じっくりと平安時代からの神宝と向き合いたい。さらに石燈籠も数が多くなる参道を進み二之鳥居をくぐり南門から本社に入る。春日造の4棟の本殿はもちろん、回廊も含めた朱が艶やかな社殿をゆっくりと見たい。整然と吊られた釣燈籠もみどころ。そのあとは、南門を出て御間道(おあいみち)から春日若宮へと回る。このあと、北へ向かえば、水谷道(みずやみち)、若草山麓を経て東大寺法華堂(三月堂)、南へ向かえば、「上(かみ)の禰宜道(ねぎみち)」を歩いて新薬師寺方面へ出ることできる。
補足情報
*1 御蓋山:標高297m。円錐形の美しい神名備の姿で、古くから神山として仰がれ、山頂に春日大社の摂社本宮神社を祀っている。三笠山、御笠山とも表記される。また、後方の花山も合わせて「春日山」とすることもある。なお、北にある若草山を三笠山と呼ぶことがある。
*2 一之鳥居:表参道入口に立つ木造の典型的な春日鳥居。836(承和3)年の創建とされ、現在のものは江戸時代の再建。鳥居の右手奥に影向(ようごう)の松、参道を300mほど進むと左手に春日若宮おん祭のお旅所がある。影向の松は参道右手に立つクロマツで、鎌倉時代ここに春日明神が現われて万歳楽を舞ったという伝説にちなみ、春日若宮おん祭の12月17日午後のお渡り式において、この松の下でも諸芸能の奉納がある。
*3 南門:高さ12mの2階建楼門である。3間1戸、桧皮葺、朱塗、左右にのびる回廊には約1,000基の釣燈籠が下げられている。創建当初は鳥居であったが、平安時代末期に楼門にした。現在のものは室町時代の建築。
*4 本殿:国宝。創建以来、式年造替を重ねており、現在の建物は江戸時代末期の建築ながら、平安当初の姿をよく踏襲しているという。春日造は切妻造・妻入りの屋根の前に向拝を付けたものが基本的な形となり、桁行1間、奥行1間の小規模な社殿に多い。
*5 社殿:車舎(くるまやどり)は、二之鳥居の手前、表参道の右手に立つ優美な桧皮葺の建物。もとは勅使がここで乗り物を降り、車を留めた場所。1632(寛永9)年の再建。
着到殿は二之鳥居をくぐり、参道の左手に立つ端正な桧皮葺の社殿。春日祭の勅使はここで神前での参拝の準備を行う。室町時代の再建。南門を入ると正面にある建物の東2間が幣殿、西3間が舞殿。左手に直会殿が立つ。いずれも素木造で春日祭のとき勅使により御祭文が奏上される。
回廊南西の軒下にある榎本神社は、当社創建以前の地主神と伝えられている猿田彦命を祀る。これは、武甕槌命がこの地へ移ってきたとき、古くから坐していた春日山の地主神(猿田彦命)に「この山を3尺(90cm)ほど貸して下さい」と頼んだところ、春日山の地主神は耳が遠く3尺四方と聞きちがえて承諾したら、山全体を地下3尺まで借りたことになってしまったという伝説に由来し祀っているという。
内侍殿(移殿)は式年造替のとき神霊を移すための建物で、捻廊(ねじろう)により本殿前の御廊と結ばれている。捻廊は、建物のすべてが斜形の登廊で素木造、左甚五郎作と伝える江戸時代の建物。内侍殿の北に朱塗の板校倉造、室町時代の建築である宝庫があり、その横に風宮神社と、フジ・ツバキ・サクラ・モミジ・ナンテン・ニワトコ・イスの七種寄木(なないろのやどりぎ)がある。
*6 国宝殿:二之鳥居の手前、参道の左側にある。鉄筋コンクリート造、2階建の現代建築で、内部に本社および春日若宮の神宝類を陳列している。藤原氏の奉納による風雅な調度品や武具を中心に祭式具・舞楽面など、平安・鎌倉時代の優れた工芸美術品が多い。
*7 聖地:御蓋山が神山とされており、榎本神社も、地主神とされ社殿があったかは不明だが、信仰の対象であったとされる。平城京遷都まで、この地を支配していた春日氏が奉斎していたのではないかとも言われている。
*8 武甕槌命:たけみかづちのみこと。武甕槌命は、古事記では「出雲国の国譲り」の交渉役など重要な役割を果たし、その佩刀は「神武東征」に霊剣として起死回生の霊力を発揮したと言われる。東国支配制圧の拠点の神として鹿島神宮に祀られ、奈良、平安時代には国の守護神として崇敬されるようになった。武甕槌命が春日の神として勧請された際に「白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳(たなび)き、雲の上に五所の神鏡と顯て、常陸国鹿島郡(神社)より、此大和國三笠山の本宮に垂迹」(鎌倉時代・源平盛衰記)したという、伝説がある。これが奈良のシカが神の使いとして大切にされる所以のひとつだとされる。
*9 藤原永手:714~771年。764(天平宝字8)年の藤原仲麻呂の乱に際し、仲麻呂打倒に功を挙げ、称徳天皇に重んぜられ、左大臣となった。死後、太政大臣の称号を贈られる。「日本霊異記」では藤原永手が「我令仆乎法花寺幢、後西大寺八角塔成四角、七層減五層也」と法華寺の幢(はたほこ)を倒し、西大寺の八角七重塔を四角五重塔へと変更し、地獄に落ちた説話が記されている。
*10 経津主命:ふつぬしのみこと。古事記では「出雲国の国譲り」の交渉役など重要な役割を武甕槌命とともに果たした。神話に出て切る霊剣の神格化。下総国(千葉県)香取神宮の祭神。
*11 天児屋根命:あめのこやねのみこと。中臣(藤原)氏の祖神。中臣氏は古代に宮廷の祭祀を司った。「古事記」や「日本書紀」では、天の岩戸から天照大神を呼び戻すための神意を問う占いなどを行った。
*12 比売神:ひめがみ。天児屋根命の后神とも、天照大神ともいわれている。
*13 式年造替:定期的に社殿を建て替えて更新すること。春日大社は、同じ場所に建て替えるので「造替」という。伊勢神宮のように場所を遷すのは「遷宮」となる。神聖さを維持するとともに、技術伝承の意義などがあるとされている。春日大社本殿の造替は、宝亀年間(770~780)に最初に行われ、以後、1079(承暦3)年までに10回行われたといわれ、以後12年から26年くらいの間隔で造替されたという。鎌倉時代以降はほぼ20年に1回の式年での造替が原則として行われたが、1863(文久3)年を最後に建て替えは行われず、屋根の葺き替えと塗装の塗り替えを中心とする修理で造替に代えている。造替の際には旧建物の様式が忠実に受け継がれてきている。
*14 春日若宮:春日大社の本殿の祭神、天児屋根命と比売神の御子神の天押雲根(あめのおしくもね)命を祭神とする。1003(長保5)年に出現したといわれ、水徳の神と仰がれた。長承年間(1132~1135年)の大雨洪水などによる飢饉・疫病蔓延に対し、関白藤原忠通が終息を祈願し1135(保延元)年に社殿を造営した。
*15 春日詣:藤原氏の氏神であったことから、伝承では10世紀末に藤原氏の長者であった藤原忠平が春日大社に参詣したのをはじめとして、藤原氏の長者の参詣が恒例の行事となった。「蜻蛉日記」でも972(天禄3)年2月に忠平の孫の藤原兼家が「明日春日の祭なれば、御幣帛(みてぐら・奉納供物)出し立つべかりければなどとて、麗しう日の装束きに、前駈數多引き連れ、おどろおどろしう追ひ散らして来つる。」と特別に威儀を整えて参列しようとする様子が記載されている。藤原道長の「御堂関白記」にもたびたび参詣している旨が書かれており、1007(寛弘4)年にも2月28~30日の日程で訪れ「雪下。未時参社頭。或取笠。或不取。社頭就間。天気晴。日脚晴。就御幣殿。」など、天気の変化が激しい中参詣していることが記録されている。
*16 強訴:事例としては「春日神木御入洛見聞略記」によると、「應安四(1372)年十一月日。奉擬寄神木於六條殿(京都にある後白河法皇由縁の寺、長講堂を指す)。今度自西路御入洛云々。傳聞訴訟肝要者。南(都一乗院大乗院兩)門跡多非義。可被改門主之由云々。同日興福寺方衆等蜂起。」と興福寺の衆徒が神木を奉って入洛し、門跡の非義を訴え、1375(応安7)年12月に「神木御歸座」の記録が残っている。また、1379(康暦元)年に入洛し、翌年に帰座しているともしている。
*17 万燈籠:まんとうろう。春日大社には石燈籠約2,000基、釣燈籠約1,000基の合計約3,000基の燈籠があり、平安時代末期から現代まで「春日の神」を崇敬する貴族や武士、広く一般庶民から寄進されてきた。近世までは燈籠奉納時に油料も納められ、それが続くかぎり毎夜灯されたり、降雨祈願などの際に灯されたり、したという。明治時代に入り一時中断したものの、節分の夜は1888(明治21)年に、中元の夜(8月15日)は1929(昭和4)年から再興され、現在の万燈籠の形となった。
*18 春日祭:3月13日に行われる例祭。現在も宮中から勅使が参向する三勅祭の一つである。申祭(さるまつり)ともいう。850(嘉祥3)年に始まったともいわれ、859(貞観元)年11月の庚申の夜に執り行われてから、春は旧暦2月、冬は旧暦11月の上の申の日を祭日と定められていた。明治以降は3月13日となった。927(延長5)年に撰進された延喜式にも神事の次第は記されており、現在もその神事が継承されている。
*2 一之鳥居:表参道入口に立つ木造の典型的な春日鳥居。836(承和3)年の創建とされ、現在のものは江戸時代の再建。鳥居の右手奥に影向(ようごう)の松、参道を300mほど進むと左手に春日若宮おん祭のお旅所がある。影向の松は参道右手に立つクロマツで、鎌倉時代ここに春日明神が現われて万歳楽を舞ったという伝説にちなみ、春日若宮おん祭の12月17日午後のお渡り式において、この松の下でも諸芸能の奉納がある。
*3 南門:高さ12mの2階建楼門である。3間1戸、桧皮葺、朱塗、左右にのびる回廊には約1,000基の釣燈籠が下げられている。創建当初は鳥居であったが、平安時代末期に楼門にした。現在のものは室町時代の建築。
*4 本殿:国宝。創建以来、式年造替を重ねており、現在の建物は江戸時代末期の建築ながら、平安当初の姿をよく踏襲しているという。春日造は切妻造・妻入りの屋根の前に向拝を付けたものが基本的な形となり、桁行1間、奥行1間の小規模な社殿に多い。
*5 社殿:車舎(くるまやどり)は、二之鳥居の手前、表参道の右手に立つ優美な桧皮葺の建物。もとは勅使がここで乗り物を降り、車を留めた場所。1632(寛永9)年の再建。
着到殿は二之鳥居をくぐり、参道の左手に立つ端正な桧皮葺の社殿。春日祭の勅使はここで神前での参拝の準備を行う。室町時代の再建。南門を入ると正面にある建物の東2間が幣殿、西3間が舞殿。左手に直会殿が立つ。いずれも素木造で春日祭のとき勅使により御祭文が奏上される。
回廊南西の軒下にある榎本神社は、当社創建以前の地主神と伝えられている猿田彦命を祀る。これは、武甕槌命がこの地へ移ってきたとき、古くから坐していた春日山の地主神(猿田彦命)に「この山を3尺(90cm)ほど貸して下さい」と頼んだところ、春日山の地主神は耳が遠く3尺四方と聞きちがえて承諾したら、山全体を地下3尺まで借りたことになってしまったという伝説に由来し祀っているという。
内侍殿(移殿)は式年造替のとき神霊を移すための建物で、捻廊(ねじろう)により本殿前の御廊と結ばれている。捻廊は、建物のすべてが斜形の登廊で素木造、左甚五郎作と伝える江戸時代の建物。内侍殿の北に朱塗の板校倉造、室町時代の建築である宝庫があり、その横に風宮神社と、フジ・ツバキ・サクラ・モミジ・ナンテン・ニワトコ・イスの七種寄木(なないろのやどりぎ)がある。
*6 国宝殿:二之鳥居の手前、参道の左側にある。鉄筋コンクリート造、2階建の現代建築で、内部に本社および春日若宮の神宝類を陳列している。藤原氏の奉納による風雅な調度品や武具を中心に祭式具・舞楽面など、平安・鎌倉時代の優れた工芸美術品が多い。
*7 聖地:御蓋山が神山とされており、榎本神社も、地主神とされ社殿があったかは不明だが、信仰の対象であったとされる。平城京遷都まで、この地を支配していた春日氏が奉斎していたのではないかとも言われている。
*8 武甕槌命:たけみかづちのみこと。武甕槌命は、古事記では「出雲国の国譲り」の交渉役など重要な役割を果たし、その佩刀は「神武東征」に霊剣として起死回生の霊力を発揮したと言われる。東国支配制圧の拠点の神として鹿島神宮に祀られ、奈良、平安時代には国の守護神として崇敬されるようになった。武甕槌命が春日の神として勧請された際に「白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳(たなび)き、雲の上に五所の神鏡と顯て、常陸国鹿島郡(神社)より、此大和國三笠山の本宮に垂迹」(鎌倉時代・源平盛衰記)したという、伝説がある。これが奈良のシカが神の使いとして大切にされる所以のひとつだとされる。
*9 藤原永手:714~771年。764(天平宝字8)年の藤原仲麻呂の乱に際し、仲麻呂打倒に功を挙げ、称徳天皇に重んぜられ、左大臣となった。死後、太政大臣の称号を贈られる。「日本霊異記」では藤原永手が「我令仆乎法花寺幢、後西大寺八角塔成四角、七層減五層也」と法華寺の幢(はたほこ)を倒し、西大寺の八角七重塔を四角五重塔へと変更し、地獄に落ちた説話が記されている。
*10 経津主命:ふつぬしのみこと。古事記では「出雲国の国譲り」の交渉役など重要な役割を武甕槌命とともに果たした。神話に出て切る霊剣の神格化。下総国(千葉県)香取神宮の祭神。
*11 天児屋根命:あめのこやねのみこと。中臣(藤原)氏の祖神。中臣氏は古代に宮廷の祭祀を司った。「古事記」や「日本書紀」では、天の岩戸から天照大神を呼び戻すための神意を問う占いなどを行った。
*12 比売神:ひめがみ。天児屋根命の后神とも、天照大神ともいわれている。
*13 式年造替:定期的に社殿を建て替えて更新すること。春日大社は、同じ場所に建て替えるので「造替」という。伊勢神宮のように場所を遷すのは「遷宮」となる。神聖さを維持するとともに、技術伝承の意義などがあるとされている。春日大社本殿の造替は、宝亀年間(770~780)に最初に行われ、以後、1079(承暦3)年までに10回行われたといわれ、以後12年から26年くらいの間隔で造替されたという。鎌倉時代以降はほぼ20年に1回の式年での造替が原則として行われたが、1863(文久3)年を最後に建て替えは行われず、屋根の葺き替えと塗装の塗り替えを中心とする修理で造替に代えている。造替の際には旧建物の様式が忠実に受け継がれてきている。
*14 春日若宮:春日大社の本殿の祭神、天児屋根命と比売神の御子神の天押雲根(あめのおしくもね)命を祭神とする。1003(長保5)年に出現したといわれ、水徳の神と仰がれた。長承年間(1132~1135年)の大雨洪水などによる飢饉・疫病蔓延に対し、関白藤原忠通が終息を祈願し1135(保延元)年に社殿を造営した。
*15 春日詣:藤原氏の氏神であったことから、伝承では10世紀末に藤原氏の長者であった藤原忠平が春日大社に参詣したのをはじめとして、藤原氏の長者の参詣が恒例の行事となった。「蜻蛉日記」でも972(天禄3)年2月に忠平の孫の藤原兼家が「明日春日の祭なれば、御幣帛(みてぐら・奉納供物)出し立つべかりければなどとて、麗しう日の装束きに、前駈數多引き連れ、おどろおどろしう追ひ散らして来つる。」と特別に威儀を整えて参列しようとする様子が記載されている。藤原道長の「御堂関白記」にもたびたび参詣している旨が書かれており、1007(寛弘4)年にも2月28~30日の日程で訪れ「雪下。未時参社頭。或取笠。或不取。社頭就間。天気晴。日脚晴。就御幣殿。」など、天気の変化が激しい中参詣していることが記録されている。
*16 強訴:事例としては「春日神木御入洛見聞略記」によると、「應安四(1372)年十一月日。奉擬寄神木於六條殿(京都にある後白河法皇由縁の寺、長講堂を指す)。今度自西路御入洛云々。傳聞訴訟肝要者。南(都一乗院大乗院兩)門跡多非義。可被改門主之由云々。同日興福寺方衆等蜂起。」と興福寺の衆徒が神木を奉って入洛し、門跡の非義を訴え、1375(応安7)年12月に「神木御歸座」の記録が残っている。また、1379(康暦元)年に入洛し、翌年に帰座しているともしている。
*17 万燈籠:まんとうろう。春日大社には石燈籠約2,000基、釣燈籠約1,000基の合計約3,000基の燈籠があり、平安時代末期から現代まで「春日の神」を崇敬する貴族や武士、広く一般庶民から寄進されてきた。近世までは燈籠奉納時に油料も納められ、それが続くかぎり毎夜灯されたり、降雨祈願などの際に灯されたり、したという。明治時代に入り一時中断したものの、節分の夜は1888(明治21)年に、中元の夜(8月15日)は1929(昭和4)年から再興され、現在の万燈籠の形となった。
*18 春日祭:3月13日に行われる例祭。現在も宮中から勅使が参向する三勅祭の一つである。申祭(さるまつり)ともいう。850(嘉祥3)年に始まったともいわれ、859(貞観元)年11月の庚申の夜に執り行われてから、春は旧暦2月、冬は旧暦11月の上の申の日を祭日と定められていた。明治以降は3月13日となった。927(延長5)年に撰進された延喜式にも神事の次第は記されており、現在もその神事が継承されている。
2024年12月現在
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