東大寺
近鉄奈良線奈良駅から東大寺南大門まで東へ約1.2km、若草山の麓に広大な寺域を占める巨刹。仏教文化が最高潮に達した8世紀半ばに、国力を傾けて造営された。寺号は平城京の東方にある大寺ということに由来する。正式には金光明四天王護国之寺*1とも称し、南都七大寺*2の一つであった。天災や兵火でたびたび伽藍を失いながらも、本尊の「奈良の大仏」と呼ばれている盧舎那大仏とそれを安置する大仏殿(金堂)などをはじめとして、かつての偉観をよくとどめている。
同寺は、聖武天皇が早世した皇太子基親王の菩提を弔うために、神亀5年(728)に建てた山房(後の金鍾寺*3)が草創とされている。741(天平13)年、聖武天皇の詔によって国分寺の制*4が定められ、金鍾寺は大和国の国分寺として寺観を改め、金光明寺と称した。さらに743(天平15)年に聖武天皇により盧舎那大仏造立の詔*5が発せられ、これを安置する寺として造東大寺司*6のもと大規模な造営が行われた。752(天平勝宝4)年に大仏が開眼*7し、伽藍の造営は以後もつづく。このころの境内は、1km四方を築地塀で囲み、四方に3門ずつを開き、西大門には「金光明四天王護国之寺」の勅額を掲げた。この勅額は東大寺に現存し、聖武天皇の宸筆と伝える10文字を2行に刻んである。
当時の伽藍配置*8は、南大門から入れば、左右に高さ100mともいわれる七重塔が並び立ち、中門・金堂・講堂を正面の一直線上に置き、講堂を中心に三面僧坊・食堂など多くの堂宇が配されていた。何十年もかけて莫大な国費を投じて建設された、当時最大の官寺である。以後八宗*9兼学の寺として多くの学僧を集め、都が京都へ遷ったのちも、興福寺と並ぶ寺勢を保った。1180(治承4)年に平重衡の南都焼討ち*10によっておもな堂塔を失ったが、ただちに重源上人*11の大勧進で復興した。1567(永禄10)年の三好・松永の兵火*12で鎌倉時代のおもな伽藍を再び焼失、すでに鎌倉時代初期のような復興力はなく、江戸時代に公慶上人*13の勧進で1692(元禄5)年にようやく大仏が開眼し、宝永6年(1709)に大仏殿が落慶した。
現在は、広大な境内に南大門*14、転害門*15、大仏殿(金堂)*16、法華堂(三月堂)*17、二月堂*18、戒壇堂などの伽藍が配置されているとともに、東大寺の長い歴史を物語る寺宝を収蔵・展示する東大寺ミュージアム*19、古文書や研究書などを収蔵する東大寺図書館などの施設がある。
主な年中行事は、「お水取り」として知られる、3月1~15日の修二会(しゅにえ)や4月8日の「仏生会」、5月2日の「聖武天皇祭」、8月7日の「大仏さま お身拭い」、8月15日の「万灯供養会」などがある。
同寺は、聖武天皇が早世した皇太子基親王の菩提を弔うために、神亀5年(728)に建てた山房(後の金鍾寺*3)が草創とされている。741(天平13)年、聖武天皇の詔によって国分寺の制*4が定められ、金鍾寺は大和国の国分寺として寺観を改め、金光明寺と称した。さらに743(天平15)年に聖武天皇により盧舎那大仏造立の詔*5が発せられ、これを安置する寺として造東大寺司*6のもと大規模な造営が行われた。752(天平勝宝4)年に大仏が開眼*7し、伽藍の造営は以後もつづく。このころの境内は、1km四方を築地塀で囲み、四方に3門ずつを開き、西大門には「金光明四天王護国之寺」の勅額を掲げた。この勅額は東大寺に現存し、聖武天皇の宸筆と伝える10文字を2行に刻んである。
当時の伽藍配置*8は、南大門から入れば、左右に高さ100mともいわれる七重塔が並び立ち、中門・金堂・講堂を正面の一直線上に置き、講堂を中心に三面僧坊・食堂など多くの堂宇が配されていた。何十年もかけて莫大な国費を投じて建設された、当時最大の官寺である。以後八宗*9兼学の寺として多くの学僧を集め、都が京都へ遷ったのちも、興福寺と並ぶ寺勢を保った。1180(治承4)年に平重衡の南都焼討ち*10によっておもな堂塔を失ったが、ただちに重源上人*11の大勧進で復興した。1567(永禄10)年の三好・松永の兵火*12で鎌倉時代のおもな伽藍を再び焼失、すでに鎌倉時代初期のような復興力はなく、江戸時代に公慶上人*13の勧進で1692(元禄5)年にようやく大仏が開眼し、宝永6年(1709)に大仏殿が落慶した。
現在は、広大な境内に南大門*14、転害門*15、大仏殿(金堂)*16、法華堂(三月堂)*17、二月堂*18、戒壇堂などの伽藍が配置されているとともに、東大寺の長い歴史を物語る寺宝を収蔵・展示する東大寺ミュージアム*19、古文書や研究書などを収蔵する東大寺図書館などの施設がある。
主な年中行事は、「お水取り」として知られる、3月1~15日の修二会(しゅにえ)や4月8日の「仏生会」、5月2日の「聖武天皇祭」、8月7日の「大仏さま お身拭い」、8月15日の「万灯供養会」などがある。
みどころ
司馬遼太郎は「東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。中央に、華厳思想の象徴である毘盧舎那仏(大仏)がしずまっている。その大仏殿をなかにすえて、境内は華厳世界のように広大である。一辺約一キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、開山堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている…中略…日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい。」と東大寺の奥深さを語っている。その東大寺をみて回るには、時間を多めにとっておいた方が良い。奈良市の中心街から見て回るのならば、南大門から入って、大仏殿、鐘楼、念仏堂、三味堂(四月堂)、法華堂(三月堂)、開山堂、二月堂と回って講堂跡を抜け勧進所、戒壇堂をみて転害門へ回ると境内をほぼ一周するとことになる。丹念に見て回るとすると一日は十分に必要だ。そのなかの見どころのポイントとしては、南大門・大仏殿・法華堂・二月堂だろう。日が落ちてからは二月堂の常夜燈も美しい。東大寺の歴史や寺宝をじっくり見たい向きには東大寺ミュージアムもはずせない。
大仏殿、法華堂、戒壇堂、東大寺ミュージアムは拝観・入堂料がそれぞれ必要。
大仏殿、法華堂、戒壇堂、東大寺ミュージアムは拝観・入堂料がそれぞれ必要。
補足情報
*1 金光明四天王護国之寺:国分寺の正式名称。ふつう金光明(こんこうみょう)と読むが、東大寺に限っては、「金(こん)」とせず、「金(きん)」と発音する。
*2 南都七大寺:東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。なお、法隆寺の代わりに唐招提寺などを入れたこともある。
*3 金鍾寺:きんしょうじ。平安時代後期の寺誌「東大寺要録」では神亀五(728)年癸酉の条に「公家(聖武天皇)爲良弁創立羂索院号金鐘寺是也」と聖武天皇が良弁(のちの東大寺初代別当)に金鍾寺を創建させたことが記され、9世紀前半に成立した仏教説話集の「日本霊異記」では「諾樂京(奈良の京の)東山有一寺。號曰金鷲。金鷲優婆塞住斯山寺故以爲字。今成東大寺。」として、金鷲寺。執金剛神像を奉じて金鍾(金鷲)行者が修行した山寺とし、これが東大寺となったとしている。
*4 国分寺の制:「続日本紀」の天平13(741)年3月乙巳(24日)の条で「且令天下諸國各敬造七重塔一區。…中略…僧寺必令有二十僧。其名爲金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺」とあり、聖武天皇は七重塔を造り、20人の僧からなる「金光明四天王護国之寺」と10人の尼層を置く「法華滅罪之寺」を造立することを定めた。当時、国内では疫病(天然痘)が流行し、凶作があり、藤原広嗣の乱なども起こった。社会に不安が広がる中、仏教に対する信仰が篤かった聖武天皇は、仏教による鎮護国家を目指し、人々を救済しようとしたといわれている。
*5 盧舎那大仏造立の詔:「続日本紀」の「粤以天平十五(743)年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舎那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。 廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。」(衆生を救済しようという菩薩の大願をたてて、 盧舎那佛金銅の像一躯を造り奉る。国中の銅を尽くして像を溶かし、大山を削って堂を構え、 広く世界に知らしめて、私の協力者を集め、そしてともにご利益(りやく)を預かり、悟りの境地に達し救われよう)とし、当初は紫香楽宮において造仏工事を開始したが、火事や地震により妨げられ、745(天平17)年に現在地で再開された。
*6 造東大寺司:当初は金光明寺造仏所が設けられ、748(天平20)年頃、造東大寺司になり、789(延暦8)年に廃止されるまで、東大寺の造営、寺領経営、写経などの事業の中心となるばかりか、他寺の造営にも当たった太政官直轄の組織。天平文化醸成の原動力のひとつになったとされる。
*7 大仏が開眼:「続日本紀」の752(天平勝宝4)年の条に「夏四月乙酉 盧舎那大仏像成始開眼。是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設齊大會。其儀一同元日。」(盧舎那大仏の像も完成し開眼する。この日、天皇自ら文武百官を率い東大寺に行し、開眼法要の会食の場を設けて、参加者が集まった。その様子は元日と全く同じだった)と記され、さらに一万人の僧を招集し、雅楽などの楽士をすべて参集させ、いろいろな歌舞が境内を分けてそれぞれ演奏されたことが記載されており、極めて盛大な開眼供養だったことが分かる。
*8 伽藍配置:東大寺式伽藍配置といわれる。それまでの塔を中心とする配置から、本尊を安置する金堂を中心とするものへ変化させた基本型となり、多くの国分寺がこの伽藍配置にならったとされる。
*9 八宗:倶舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に、天台・真言を加えたもの。
*10 平重衡の南都焼討ち:1180(治承4)年、反平氏勢力が蜂起したとき,南都の興福寺、東大寺の堂衆も平氏に対抗して立ち上がったため、平重衡が東大寺・興福寺を攻め、その際の戦火で大仏殿などほとんどの伽藍が焼失した。
*11 重源上人:1121~1206年。鎌倉時代初期の浄土宗の僧。号は俊乗房。入宋し、帰朝後、1181(養和1)年に造東大寺大勧進職に就き、広く諸国を東大寺修復のために勧進して回り、1206(建永元)年6月5日に没するまで東大寺復興の造営にあたった。
*12 三好・松永の兵火:松永久秀と三好義継等や筒井順慶との大和における勢力争いから戦いとなり、1567(永禄10)年、10月10日の夜、三好勢が陣を敷く東大寺に対し、松永勢がこれを攻めた。その時の状況を興福寺の僧が記録した「多聞院日記」では、「大佛ノ陣へ多聞山より打入合戦数度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂へ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑剋(刻)ニ大佛殿忽(たちまち)焼了」としている。
*13 公慶上人:1648~1705年。江戸時代、大仏殿および大仏の再興に尽力。鎌倉時代の重源に次ぐ、第二の中興といわれる。1684(貞享元)年、幕府に大仏殿再興と諸国勧進を願上し、それをもとに1686(貞享3)年から大仏の修復が始まり、1692(元禄5)年に開眼供養が行われた。さらに大仏殿の再興を目指し、1705(宝永2)年に大仏殿の上棟式を迎えたが、落慶前に没した。大仏殿の落慶は1709(宝永6)年だった。
*14 南大門:国宝。1203(建仁3)年の竣工、重源の再建による。高さは基壇上25.46m。入母屋造、五間三戸二重門。
*15 転害門:国宝。境内西北、正倉院の西側にある。三間一戸八脚門。鎌倉時代の改変はあるが、戦火の被災を免れ、天平時代の建物の造形をそのまま残す。
*16 大仏殿(金堂):国宝。1709(宝永6)年の再建。創建時の規模は、正面約88m、奥行約52m、高さ約47mだったが、江戸再建後は正面約57m、奥行約50m、高さ約48mとなった。現在でも木造古建築としては世界最大級といわれている。
*17 法華堂(三月堂):国宝。東大寺の現存最古の建物。寺伝では東大寺の前身の金鍾寺の遺構とされる。天平年間(729~749)に造立された寄棟造の正堂に、鎌倉時代に入母屋造の礼堂を付けた名建築。不空羂索(ふくうけんさく)観音立像を本尊とし、古くは「羂索堂(けんさくどう)」と呼ばれた。この像をはじめ堂内には多数の天平仏を安置する。
*18 二月堂:国宝。旧暦2月に「修二会(お水取り)」が行われることに由来する名。二月堂は、江戸時代初期まで、戦火には巻き込まれなかったが、1667(寛文7)年に失火で焼失した。現在の建物は、その2年後に再建したもの。
*19 東大寺ミュージアム:多数の寺宝を収蔵し、「東大寺の歴史と美術」をテーマに5室の展示スペースで公開している博物館。第1室は創建期をテーマに国宝の誕生釈迦仏立像や東大寺金堂鎮壇具、重文伎楽面など、第2室は彫刻(奈良時代~平安時代)をテーマにもとは法華堂に安置されていた国宝の日光・月光菩薩立像や重要文化財の千手観音立像など、第3室は彫刻(奈良時代~鎌倉時代)と奈良時代の工芸をテーマとし、第4室は東大寺の聖教、東大寺の絵画、第5室は東大寺の考古をテーマにしている。入館有料。
東大寺図書館の蔵書は仏教書、歴史書、美術書などの研究書を中心としており閉架式の研究用図書館(入館無料、利用者登録が必要)。
*2 南都七大寺:東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。なお、法隆寺の代わりに唐招提寺などを入れたこともある。
*3 金鍾寺:きんしょうじ。平安時代後期の寺誌「東大寺要録」では神亀五(728)年癸酉の条に「公家(聖武天皇)爲良弁創立羂索院号金鐘寺是也」と聖武天皇が良弁(のちの東大寺初代別当)に金鍾寺を創建させたことが記され、9世紀前半に成立した仏教説話集の「日本霊異記」では「諾樂京(奈良の京の)東山有一寺。號曰金鷲。金鷲優婆塞住斯山寺故以爲字。今成東大寺。」として、金鷲寺。執金剛神像を奉じて金鍾(金鷲)行者が修行した山寺とし、これが東大寺となったとしている。
*4 国分寺の制:「続日本紀」の天平13(741)年3月乙巳(24日)の条で「且令天下諸國各敬造七重塔一區。…中略…僧寺必令有二十僧。其名爲金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺」とあり、聖武天皇は七重塔を造り、20人の僧からなる「金光明四天王護国之寺」と10人の尼層を置く「法華滅罪之寺」を造立することを定めた。当時、国内では疫病(天然痘)が流行し、凶作があり、藤原広嗣の乱なども起こった。社会に不安が広がる中、仏教に対する信仰が篤かった聖武天皇は、仏教による鎮護国家を目指し、人々を救済しようとしたといわれている。
*5 盧舎那大仏造立の詔:「続日本紀」の「粤以天平十五(743)年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舎那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。 廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。」(衆生を救済しようという菩薩の大願をたてて、 盧舎那佛金銅の像一躯を造り奉る。国中の銅を尽くして像を溶かし、大山を削って堂を構え、 広く世界に知らしめて、私の協力者を集め、そしてともにご利益(りやく)を預かり、悟りの境地に達し救われよう)とし、当初は紫香楽宮において造仏工事を開始したが、火事や地震により妨げられ、745(天平17)年に現在地で再開された。
*6 造東大寺司:当初は金光明寺造仏所が設けられ、748(天平20)年頃、造東大寺司になり、789(延暦8)年に廃止されるまで、東大寺の造営、寺領経営、写経などの事業の中心となるばかりか、他寺の造営にも当たった太政官直轄の組織。天平文化醸成の原動力のひとつになったとされる。
*7 大仏が開眼:「続日本紀」の752(天平勝宝4)年の条に「夏四月乙酉 盧舎那大仏像成始開眼。是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設齊大會。其儀一同元日。」(盧舎那大仏の像も完成し開眼する。この日、天皇自ら文武百官を率い東大寺に行し、開眼法要の会食の場を設けて、参加者が集まった。その様子は元日と全く同じだった)と記され、さらに一万人の僧を招集し、雅楽などの楽士をすべて参集させ、いろいろな歌舞が境内を分けてそれぞれ演奏されたことが記載されており、極めて盛大な開眼供養だったことが分かる。
*8 伽藍配置:東大寺式伽藍配置といわれる。それまでの塔を中心とする配置から、本尊を安置する金堂を中心とするものへ変化させた基本型となり、多くの国分寺がこの伽藍配置にならったとされる。
*9 八宗:倶舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に、天台・真言を加えたもの。
*10 平重衡の南都焼討ち:1180(治承4)年、反平氏勢力が蜂起したとき,南都の興福寺、東大寺の堂衆も平氏に対抗して立ち上がったため、平重衡が東大寺・興福寺を攻め、その際の戦火で大仏殿などほとんどの伽藍が焼失した。
*11 重源上人:1121~1206年。鎌倉時代初期の浄土宗の僧。号は俊乗房。入宋し、帰朝後、1181(養和1)年に造東大寺大勧進職に就き、広く諸国を東大寺修復のために勧進して回り、1206(建永元)年6月5日に没するまで東大寺復興の造営にあたった。
*12 三好・松永の兵火:松永久秀と三好義継等や筒井順慶との大和における勢力争いから戦いとなり、1567(永禄10)年、10月10日の夜、三好勢が陣を敷く東大寺に対し、松永勢がこれを攻めた。その時の状況を興福寺の僧が記録した「多聞院日記」では、「大佛ノ陣へ多聞山より打入合戦数度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂へ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑剋(刻)ニ大佛殿忽(たちまち)焼了」としている。
*13 公慶上人:1648~1705年。江戸時代、大仏殿および大仏の再興に尽力。鎌倉時代の重源に次ぐ、第二の中興といわれる。1684(貞享元)年、幕府に大仏殿再興と諸国勧進を願上し、それをもとに1686(貞享3)年から大仏の修復が始まり、1692(元禄5)年に開眼供養が行われた。さらに大仏殿の再興を目指し、1705(宝永2)年に大仏殿の上棟式を迎えたが、落慶前に没した。大仏殿の落慶は1709(宝永6)年だった。
*14 南大門:国宝。1203(建仁3)年の竣工、重源の再建による。高さは基壇上25.46m。入母屋造、五間三戸二重門。
*15 転害門:国宝。境内西北、正倉院の西側にある。三間一戸八脚門。鎌倉時代の改変はあるが、戦火の被災を免れ、天平時代の建物の造形をそのまま残す。
*16 大仏殿(金堂):国宝。1709(宝永6)年の再建。創建時の規模は、正面約88m、奥行約52m、高さ約47mだったが、江戸再建後は正面約57m、奥行約50m、高さ約48mとなった。現在でも木造古建築としては世界最大級といわれている。
*17 法華堂(三月堂):国宝。東大寺の現存最古の建物。寺伝では東大寺の前身の金鍾寺の遺構とされる。天平年間(729~749)に造立された寄棟造の正堂に、鎌倉時代に入母屋造の礼堂を付けた名建築。不空羂索(ふくうけんさく)観音立像を本尊とし、古くは「羂索堂(けんさくどう)」と呼ばれた。この像をはじめ堂内には多数の天平仏を安置する。
*18 二月堂:国宝。旧暦2月に「修二会(お水取り)」が行われることに由来する名。二月堂は、江戸時代初期まで、戦火には巻き込まれなかったが、1667(寛文7)年に失火で焼失した。現在の建物は、その2年後に再建したもの。
*19 東大寺ミュージアム:多数の寺宝を収蔵し、「東大寺の歴史と美術」をテーマに5室の展示スペースで公開している博物館。第1室は創建期をテーマに国宝の誕生釈迦仏立像や東大寺金堂鎮壇具、重文伎楽面など、第2室は彫刻(奈良時代~平安時代)をテーマにもとは法華堂に安置されていた国宝の日光・月光菩薩立像や重要文化財の千手観音立像など、第3室は彫刻(奈良時代~鎌倉時代)と奈良時代の工芸をテーマとし、第4室は東大寺の聖教、東大寺の絵画、第5室は東大寺の考古をテーマにしている。入館有料。
東大寺図書館の蔵書は仏教書、歴史書、美術書などの研究書を中心としており閉架式の研究用図書館(入館無料、利用者登録が必要)。
関連リンク | 東大寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
東大寺(WEBサイト) 「多聞院日記 第2巻(巻12-巻23)」三教書院 昭和10~14年 25/250 国立国会図書館デジタルコレクション 「東大寺要録」佛教大附属図書館 8/34 「国史大系 第2巻 続日本紀」122・130・155/405 国立国会図書館デジタルコレクション 「朝日日本歴史人物事典」(株)朝日新聞出版 「重源」「公慶」 |
2024年12月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。