山田寺跡やまだでらあと

JR桜井線(万葉まほろば線)・近鉄大阪線桜井駅から南へ約4.5km。641(舒明天皇13)年に蘇我倉山田石川麻呂*1が氏寺として造営をはじめた寺で、643(皇極天皇2)年には金堂が建立された。しかし、649(大化5)年に石川麻呂は反乱の疑いをかけられ自害したため、造営は中断した。その後疑いが晴れ、663(天智天皇2)年には堂塔の建立が再開され、685(天武天皇14)年には丈六薬師仏(高さ4.85mの仏像)が開眼し天武天皇の行幸もあり、山田寺は完成したとされる。1023(治安3)年には藤原道長が参詣に訪れるなど隆盛を誇ったが、1187(文治3)年には興福寺の東金堂衆に丈六仏を奪い去られるなど、衰微し、明治時代初期の廃仏毀釈で廃寺となった。1892(明治25)年には再興されたが、現在は小さな観音堂と広々とした境内地跡に基壇、礎石が遺るのみである。
 境内跡地で小さな観音堂が建っているところが講堂跡とされ、礎石や地覆石(じふくいし)が遺り、その南東方向一直線上に塔と金堂の基壇が発掘されたことから四天王寺式伽藍配置*2であったことが分かっている。金堂の基壇は東西21.6m、南北18.3mで、そこに柱間3間と2間の母屋に3間・2間の庇がつく珍しい型式であるとされている。発掘調査では金堂の風招・塼仏・鴟尾・鬼瓦・瓦なども発見され、1982(昭和57)年の調査では、東回廊跡から連子窓をもつ回廊の一部が原形のまま出土し法隆寺より古い建築様式であったことが分かっている。これらの出土品は近くの飛鳥資料館*3に保存展示されている。また、山田寺の丈六薬師仏の仏頭*4は現在、興福寺国宝館に安置されている。
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みどころ

山田寺跡は、現在はただ芝生が広がり、かつて講堂跡があったというところに小さな観音堂が建つのみである。周囲はのどかな田園風景で、現在では飛鳥時代にこの地に大寺があったとは想像しにくいが、東に緑豊かな丘陵地帯が続き、西には肥沃な奈良盆地が広がるこの地を古代における有力貴族だった蘇我倉氏が本拠地とし、氏寺を建立しようとしたことは、この地に立てば理解できるし、歴史への興味もさらに深まる。ぜひ、近くの飛鳥資料館に行き、発掘調査の成果を見学することをお勧めする。また、興福寺国宝館の仏頭も見て、この地の立地を改めて思い起こしてみるのもよいだろう。
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補足情報

*1 蘇我倉山田石川麻呂:読みは「そがのくらのやまだのいしかわのまろ」(以下石川麻呂)。生年不詳、649(大化5)年没。蘇我倉氏は朝廷の倉の出納・管理にあたっていたという豪族。朝廷のなかでも指導者的な地位にあったと思われ、大化の改新では、中大兄皇子に付き、蘇我氏を排除したが、649(大化5)年に蘇我日向が兄の石川麻呂が謀反を企てていると中大兄皇子に讒言し、このため石川麻呂は窮地に陥り、自害したと言われている。なお、その後、名誉回復は行われたものの、蘇我倉氏は壬申の乱の際に大友皇子側についたため、衰微したという。
*2 四天王寺式伽藍配置:大阪の四天王寺にみられるもの。飛鳥時代(7世紀)に見られる寺院の伽藍配置で、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線に配置し、それを回廊で囲んだ形式。
*3 飛鳥資料館:奈良文化財研究所の施設。山田寺の西方600mほどのところにある。飛鳥資料館第2展示室で、金堂の出土品や回廊の一部など山田寺関連の資料が公開されている。休館日は毎週月曜日(祝日と重なれば翌平日)、年末年始。入館有料。
*4 丈六薬師仏の仏頭:山田寺の丈六薬師仏は1187(文治3)年に興福寺に持ち込まれ、東金堂の本尊薬師如来像とされた。しかし、1411(応永18)年に火災に遭い、残った仏頭は東金堂本尊台座に納められていたが、1937(昭和12)年になってそれが発見された。逞しい輪郭ながら、若々しく清々しい顔立ちで、白鳳時代(7世紀後半)の特色が良く現れているとされる。興福寺国宝館で公開している。無休。拝観有料。

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