東海道の松並木とうかいどうのまつなみき

JR東海道本線舞阪駅から南へ200mほどの旧東海道にある。この松並木は1604(慶長9)年徳川家康の命*1により街道の整備が進み、一里塚や街道筋の両側に松(宿、街道によっては杉、榎など)の植栽が行われたのが始まりと言われている。この舞阪宿でも正徳年間(1711~1716年)には宿場の東はずれ(見付石垣)から東海道を東に向かい、8町40間(約940m)の道の両側の堤に1420本の立木*2があったといわれ、現在は700mほどの旧東海道の街路に370本の松並木が残されている。また、旧東海道の新居町駅側にも、片側だけであるが旧東海道に1kmほどの松並木が残されている。
 街道筋に並木を植えた理由については、路標の役割、夏の日差しや、冬の風雪から旅人を守るためなど諸説*3があり、古代から官道など各所で植えられてきた*4が、江戸時代に入り五街道、脇街道などの整備に伴い、並木も宿村の賦課を含め保全維持の規程*5が設けられ、保護が図られた。
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みどころ

舞阪付近の旧東海道周辺は陽光が溢れる住宅街だが、そのなかを道の両側に松並木が延々と続く。古代から近世において、もっとも重要な街道のひとつに整備された松並木の面影をそのまま残しており、歴史散歩には格好だ。弥次さん喜多さんになったつもりで、松並木の景観を楽しみつつ、新居関に向かうのも一興。車で訪問する場合は松並木の付近には駐車場がないので注意が必要だ(有料駐車場は200mほど離れた舞阪駅付近となる)。
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補足情報

*1 徳川家康の命:江戸幕府の公式な史書『徳川実記』には、1604(慶長9)年2月に「右大将殿(家康)の命として。諸國街道一里毎に堠塚(世に一里塚といふ。)を築かしめられ。街道の左右に松を植しめらる」と記され、5月には「諸國堠塚ことごとく成功す」とある。ただし、同じ『徳川実記』で1605年(旧暦では慶長9年12月)に慶長津波地震があり、舞阪には「高波打あげ。橋本邊の民家八十ばかり波と共に海に引入られ人馬死傷少なからず」とあるので、舞阪付近における松並木の整備の完了時期は不詳である。
*2 立木:この地にあった松並木について、吉田松陰は『東遊記』の1851(嘉永4)年3月29日の項で「過關(新居関)而舟渡一里、達前坂(舞阪)、穿列松之間三里、宿濵松」として舞阪から浜松の間の松並木について触れている。                                                                                 *3 諸説:柳田国男は「天平寳字年(西暦759)六月二十二日の格(勅令)に依れば、東大寺の僧普照法師なる者の建白に基づき、國道の兩側に遍ねく果樹を種ゑしめらる。往來の人民樹の傍に息ひ、夏は即ち蔭に就きて熱を避け、飢ゑたる者は其實を摘みて之を喰はんが為なり」と古代の官道での植栽の意味を紹介している。さらに、中国においては「官道の兩側には到所槐(えんじゅ)の木を栽うること、唐時代より盛なり…中略…又一里塚の上にも栽ゑたり」とし「日本にては一里塚に榎を栽う。初めて一里塚に榎を栽ゑしは信長の時とも秀忠の時とも云ひ…中略…昔の並木には濶葉樹が多かりしに、近世になり追々と松杉の如き常磐木に變ぜしことは事實なり」と並木の変遷を解説している。1690~1692年に在日していた、ドイツ人でオランダ商館医のケンプェルは1691(元禄4)年に参府した際、「西海道の一部分に於いて、又東海道に於いては間々なる都市町村を除く外は、大抵路の両側に間隙せまく、又真正に並びたる松の並木ありて、日の蔭をなし又旅人の慰安となる」と記している。
*4 古代から官道など各所に植えられてきた:鎌倉中期の紀行書『海道記』には、1223(貞応2)年4月11日の項に「橋本をたつ。橋のわたりより行く行くたちかえりみれば、あとに白浪の聲は、すぐるなごりをよびかえし、路に青松の枝は、あゆむ裳を引きとどむ」として、舞阪の対岸の道の周辺には松林があったことが記され、同じ時期の『東関紀行』の舞阪の項でも「錦花繍草の類は、いとも見えず、白き真砂のみありて、雪の積れるに似たり、その間に松たえだえ生ひわたりて、潮風梢に音づれ」としているので、浜名湖の今切付近は新居側も舞阪側も多くの松が生い茂っていたことがわかるが、これが街道の並木であったかどうかは不詳である。                    
*5 規程:『舞阪町史』によれば、江戸時代を通じ、「道中奉行は五街道筋の並木の管理・維持に関する触書をしばしば出した。松並木には関しては、枯葉・枯木の処理などに至るまで道中奉行の許可を必要とし、下草や蔦の除去などについては当該の宿村の日常的な負担とした」と厳しい保護規程を決め、なおかつ、たびたび保全維持に関する触書を出していたという。ケンプェルは「旅人はいつにても立派にして快き道路を目前に見るなり。相隣する村は双方協力して道路を修理し常に注意して毎日之を掃除するなり」と、街道筋の村々の賦役で管理維持していることを記している。

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