甲斐善光寺かいぜんこうじ

JR中央本線甲府駅から愛宕トンネルを通り、東へ約2.7km、JR身延線善光寺駅の北へ約900mほどのところにある。武田信玄*は、数次にわたる川中島の戦いのなか、1555(弘治元)年に信州善光寺が戦火に巻き込まれたため、本尊の秘仏 善光寺式阿弥陀三尊像をはじめ諸仏寺宝類を、一旦、信濃国禰津村(現・東御市)に持ち出し、1558(永禄元)年には甲斐国後屋村(現・甲府市)に遷したのち、さらに1559(永禄2)年に甲斐国板垣村(現在地)へ信州善光寺の僧侶ともども遷座させた。「甲斐国志」では、同時に伽藍を起工し、1664(永禄8)年までには本堂、三重塔、三門、鐘楼など「荘厳宏大」な大伽藍が建立されたと記されている。信州善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれる。
 武田氏滅亡後も、1598(慶長3)年に本尊の秘仏 善光寺式阿弥陀三尊像は信州善光寺に帰座した。このため、甲斐善光寺では、秘仏とされる信州善光寺本尊の前立仏であった善光寺式阿弥陀三尊像*を現在は本尊としている。また、武田信玄が建立した伽藍は1754(宝暦4)年に焼失したが、山門は1767(明和4)年に上棟供養(完工年は不明)され、金堂(本堂)*は1796(寛政8)年に再建された。現在はともに国の重要文化財に指定されている。宗派は浄土宗。
#

みどころ

JR身延線善光寺駅から参道を北に向かうと、甲府盆地の北の山並みを背に、甲斐善光寺の大きな山門と威風堂々とした朱塗りの金堂(本堂)が迫ってくる。信州善光寺と同じ撞木造りの本堂ではあるが、白木で総檜皮葺の屋根を有する信州善光寺とは趣の違う迫力のある伽藍である。
 甲斐善光寺は、勇猛果敢な戦国武将としてともに知られる、信州進出を図った武田信玄と、越後の雄 上杉謙信とのつばぜり合いのなかで、信玄が善光寺信仰の取り込みを図った証しとも考えられる寺院であり、戦国時代の歴史に思いを馳せるには格好の場所。
 金堂(本堂)の中陣の「鳴き龍」を試すには、床にある足形のマークの位置で手を打てば多重反響による龍の鳴き声を明瞭に聞くことができる。また、裏手の厨子の下にある階段を降り、真の暗闇となる戒壇巡りも興味深い。
#

補足情報

*武田信玄:1521~1573年、武田信玄は、1541(天文10)年に父親の信虎を退隠させた後、甲斐国を掌握し、隣国信濃国に進出。北信地方を除き平定したものの、上杉謙信との対決を招き、数度にわたり「川中島の合戦」を戦うことになった。その後、隣国との関係を固め、1572(元亀3)年上洛を目指し、三方ヶ原の戦いなどで徳川軍を破り三河まで達したが、持病のため伊那駒場で没した。戦国武将として名高い信玄であるが、治政においても手腕を発揮し、とくに釜無川(富士川の上流)に氾濫を抑えるために独創的な信玄堤を築き、新田の開発を積極的に行うとともに、甲州金で知られる金山の開発、商・職人集団の編成や城下町の拡充に努めた。
*同形式の善光寺式阿弥陀三尊像:銅造鍍金。信州善光寺の前立仏(平常公開されない秘仏の身代わりとして、礼拝者にその尊容をしのばせる仏像)として、1195(建久6)年造立とされる。像高、阿弥陀147.2cm、観音95.5cm、勢至95.1cm、中尊の重量は242kg。
*金堂(本堂):撞木造(しゅもくづくり)とよばれる形式で、総高27m、総奥行49mという大伽藍。中陣の天井には、江戸期の画家希斎による巨大な龍が二匹描かれており、この部分が吊り天井となっており、「鳴き龍」と呼ばれる多重反響現象による共鳴が起こるようになっている。また、金堂(本堂)内の裏手の厨子床下には、戒壇巡りもあり、鍵を触れることによって本尊との御縁を結べるという。

あわせて行きたい