恵林寺えりんじ

JR中央本線塩山駅の北西4kmにある。1330(元徳2)年に甲斐牧ノ庄(現・山梨市牧丘町等)の地頭職二階堂出羽守貞藤が自分の邸宅を禅院として夢窓国師*を招き開創した古刹であり、本堂裏には夢想国師作庭の庭園*が現存している。1564(永禄7)年に武田信玄*が快川国師*を招いて寺領を寄進し菩提寺とした。
 信玄が病死してから3年を経た1576(天正4)年にここで大葬儀を行ったが、1582(天正10)年、武田氏滅亡後、織田軍に大半の堂宇は焼かれ、快川国師は三門楼上で100余名の僧とともに猛火の中に没した。そのとき快川は「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も亦涼し」*の辞世の句を残したと伝えられる。
 1606(慶長11)年に徳川家康により再建されたが、明治期に再び火災に遭い、主要な伽藍は焼失した。そのなかで、徳川家康の再建時建立の四脚門と柳沢吉保らが江戸期に造営した三門、信玄霊廟、明王殿、開山堂などは残った。本堂は明治の再建。境内には武田信玄墓や江戸期に甲斐国国主であった柳沢吉保墓のほか、信玄公宝物館*があり、武田氏の遺品などが収められている。臨済宗妙心寺派。
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みどころ

代表的な戦国大名である武田氏の盛衰に深くかかわった寺院だが、戦国時代当時の伽藍は遺っていない。現在の堂宇はその後に再建されたものではあるものの、波乱に満ちた歴史に思いを馳せるのに十分な重厚感と森厳さを有している。
 とくに庭園が素晴らしい。江戸後期編纂の「甲斐国志」では「夢想国師ノ所築ト云傳ヘタル懸泉アリ奇岩疊石幽遠ノ風致ヲ覺ユ其餘ハ松平甲斐守(柳沢吉里)ノ時ニ増築セシト云頗ル美観ナリ」と記している。
 明王殿にある武田不動尊は、「甲陽軍鑑(品第八)」や「甲斐国志巻之七十五」によると、生前、武田信玄が「御影をもくぞうにあらはしみくらべて御本體にもちがはぬ様に作らせ御ぐしの毛を焼て御影の御ぐしを彩色給へば座像の不動明王に毛頭違はせ給はず」(甲陽軍鑑)ということから脇侍を付け加え不動明王に仕立てた、と伝えられている。この像と対面して信玄の忿怒の形相を想像してみるのも、この寺のみどころのひとつだろう。
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補足情報

*夢窓国師:1275~1351年。臨済宗の僧、名は疎石。伊勢国に生まれ幼児期を甲斐で過ごした。9歳で出家、京都の南禅寺・鎌倉の浄智寺・円覚寺に住し、また恵林寺の開山となった。造園などに才能をもち、西芳寺・天竜寺・瑞泉寺(鎌倉)の庭園を造園したと伝える。
*庭園:恵林寺庭園として国の名勝に指定されており、夢窓国師の作庭と伝えられる。上段が枯山水、下段が池泉回遊式の2段構えで、乾徳山(けんとくさん)を借景にしている。ツツジの開花期は美しい。
*武田信玄:1521~157年。武田信玄は、1541(天文10)年に父親の信虎を退隠させた後、甲斐国を掌握し、隣国信濃国に進出。北信地方を除き平定したものの、上杉謙信との対決を招き、数度にわたり「川中島の合戦」を戦うことになった。その後、隣国との関係を固め、1572(元亀3)年上洛を目指し、三方ヶ原の戦いなどで徳川軍を破り三河まで達したが、持病のため伊那駒場(長野県阿智村)で没した。戦国武将として名高い信玄であるが、治政においても手腕を発揮し、とくに釜無川(富士川の上流)に氾濫を抑えるために独創的な信玄堤を築き、新田の開発を積極的に行うとともに、甲州金で知られる金山の開発、商・職人集団の編成や城下町の拡充に努めた。
*快川国師:1502~1582年。快川紹喜。美濃の生まれで、妙心寺で法燈を継ぐ。武田信玄の帰依を受け、恵林寺の住持となる。1581(天正9)年朝廷より大通智勝の国師号を受ける。
*「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も亦涼し」:中国後梁の詩人杜荀鶴(とじゅんかく)の詩の一節であるが、宋時代に禅語として用いられるようになった。「安禅」は座禅を指す。
*信玄公宝物館:恵林寺が所蔵する資料の保存と管理、財団事業として資料の収集等を行うとともに、寺宝を含め、一般公開、展示を行っている。国指定重要文化財の刀剣類、信玄の礼拝仏「釈迦苦行座像」をはじめ、「軍配団扇」や「当世具足」、「甲冑」などの工芸品のほか、「武田信玄軍陣影」「快川和尚画像」「武田24将画像」、「孫子の旗(風林火山の旗)」などが展示されている。