栖雲寺せいうんじ

JR中央本線甲斐大和駅から東北へ約6km、景徳院*を経て日川渓谷*沿いにさかのぼった山中にある。1348(貞和4)年、「元」の天目山(中国・浙江省杭州市)で修行した業海本浄*によって創始されたため、山号は天目山。兵庫県の高源寺*を西天目というのに対し東天目とも呼ばれている。武田氏の菩提寺として庇護され、武田信満*の墓もある。裏山には巨大な石を重ねた修禅の庭*がある。宗派は臨済宗。武田氏滅亡の折に兵火で伽藍を焼失したものの、江戸期に再建され、その後、修復もなされた。境内には「蕎麦切発祥地」*の石碑もある。
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みどころ

日川渓谷を登り詰めた、山腹の集落のなかにあり、素晴らしい自然環境である。現在は、本堂、庫裏、伝灯庵などの小さな山寺という佇まいだが、その後背地にある石庭は、自然の造形を活かした、荒々しいほどの景観をみせる。自然の中での禅道場の雰囲気をそのまま残す。
 下流の竜門橋から栖雲寺まで2.4kmほどの日川渓谷の遊歩道は、新緑、紅葉期には変化にとんだ渓谷美をみながらの手ごろなハイキングコースだ。
 武田氏滅亡の地、景徳院に立ち寄り、栖雲寺での鎌倉期における武田氏の悲劇と合わせ、戦国大名として名を馳せた武田氏の歴史を顧みるのには格好の地だ。
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補足情報

*景徳院:1582(天正10)年3月11日、田野地区において織田、徳川連合軍との戦いの結果、この地で武田家は終焉した。 山内近くに自刃した武田勝頼、夫人、嫡子信勝の生害石や墓のほか、最後まで従った将兵、待女合わせ50名の墓がある。徳川家康が景徳院の前身となる田野寺を建立したが、その後火災に遭い、現在は当時の伽藍は残されていない。
*日川渓谷:景徳院から栖雲寺までの渓谷の一部は竜門峡と呼ばれ、滝に恵まれた渓流。三段に連なる「落合三つの滝」や「竜門の滝」、「千賀の岩」、「天狗淵」などが点在。竜門橋から栖雲寺まで全長2.4kmの遊歩道がある。新緑、紅葉期がとくに景観が素晴らしい。
*業海本浄:?~1352(文和元)年。1318(文保2)年、「元」に渡り、杭州天目山の中峰明本(普応国師)のもとで修行。印可を授かり1326(嘉暦元)年に帰国。その後、諸方行脚のすえ、杭州天目山によく似たこの地で、天目山護国禅寺(現在の栖雲寺)を創建。この山中の樹下や石上で坐禅を組み、中峰明本の教えを伝えた。
*高源寺:兵庫県丹波市にある。1325(正中2)年、遠谿祖雄禅師により開創。臨済宗中峰派(幻住派とも)の本山。遠谿祖雄は1306(嘉元4)年に「元」に渡り、杭州天目山の中峰明本のもとで約10年修行。帰国後、霊夢で得た天目山に似たこの地に堂宇を創建した。
*武田信満:?~1417(応永24)年。甲斐源氏の流れくむ武田信義から10代目の当主(武田信玄の6代前)で甲斐国及び安芸国の守護となった。鎌倉公方・関東管領の上杉氏一族の権力争いに巻き込まれ、上杉憲宗に攻められてこの地で自害。「甲斐国志」には「信満ノ石塔並ニ家臣ノ石塔トテ六七基棲(栖)雲寺ノ域内ニアリ皆五輪ニシテ銘ナシ」と記録されており、その石塔は現存する。
*修禅の庭:庫裏東側の急斜面にある、多くの巨岩・巨石からなる自然の造形そのままの石庭。創建当時は、開祖の業海本浄が庭園上段の「座禅石」に坐り、そのもとで修行僧達は石の上や樹の下で坐禅を組んだと言われている。庭園の中には地蔵菩薩と文殊菩薩の磨崖仏がある。ほかに三尊石、摩利支天堂などがあり、紅葉期には周囲の山々を借景とした見事な景観をみせる。
*蕎麦切発祥地:1697(元禄10)年頃に書かれたという尾張藩士天野信景の随筆集「塩尻」に、「蕎麦切は甲州よりはしまる初め天目山へ参詣多かりし時所民参詣の諸人に食を賣に米麦の少かりし故そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」とあることから、蕎麦きりの発祥地ではないかと、言われている。ただ、それより前、1562(永禄5)年に木曽の定勝寺の古文書にも「振舞ソハキリ」とあるので、その発祥は定かではない。

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