善光寺ぜんこうじ

長野市中心部、”善光寺”信号または二天門跡から約460mの石畳の参道が、仁王門*・山門*を経て本堂*へとつづく。境内は5万9,000m2と広く、参道に大勧進・大本願をはじめ39の宿坊が並ぶ大寺院である。「牛にひかれて善光寺参り」*で知られるように、一生に一度お参りすれば極楽往生が約束されると、全国から多くの老若男女を集める信仰の場となっている。その庶民的な雰囲気は、みやげ物店や仏具店が軒を連ねる仁王門から山門にいたる間、約100mの仲見世通りのあたりに代表される。また、お参りの仕方も戒壇めぐりや輪蔵回し*、びんずるさま*など親しみのあるものである。
 巨大な本堂の左手奥には日本忠霊殿が、寺の北方、大峰山の中腹には雲上殿が立つ。
 『善光寺縁起』によると、552(欽明天皇13)年に百済の聖明王から贈られたのが、本尊の一光三尊阿弥陀如来像であるとされる。この仏像は、仏教の受容を巡る物部氏(廃仏派)と蘇我氏(崇仏派)の争いに巻きこまれ、難波の堀江に捨てられた。のちに信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国に移し、644(天智天皇3)年には伽藍を造営、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたという。浄土信仰の隆盛に伴い善光寺信仰が広まり、各地に本尊の分身仏や新善光寺が造られた。戦国時代には本尊が各地を流転するといったこともあったが、江戸時代になって家康から寺領千石の寄進をうける。1707(宝永4)年に現在の本堂を落成、山門、経蔵などの伽藍が整えられ現在に至っている。
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みどころ

境内は5万9,000m2と広く、本堂はじめとして様々な歴史的な建物、供養塔、像や碑があり、参拝には1~2時間程度を要する。本堂は、間口約24m、高さ約29m、奥行き約54mと、江戸時代中期仏教建築を代表する規模の大きいもので、堂々たる風格がある。本堂内陣・善光寺史料館、山門登楼、経蔵なども参拝可能である。特に山門(間口、高さ共に約20m)に登ると、本堂や三重塔の日本忠霊殿・善光寺史料館のバックに緑豊かな山々を望むことができる。
 本尊を祀る瑠璃壇の下には暗闇の回廊がある。その中を手探りで進み本尊の真下にかけられた「極楽の錠前」にふれると、本尊と結縁し、極楽往生が約束されるという「戒壇めぐり」は、善光寺の名とともに人気が高く、御開帳の時には長い行列ができる。
 善光寺の門前町、大門町には歴史を感じさせる建物が軒を連ねており、魅力ある施設が建ち並ぶ。また周辺の町並みには、日本一古い木造映画館や古い建物を利用して美しく再生された店舗や蔵が並び、散策や土産品購入、飲食なども楽しめる。1998(平成10)年の長野オリンピックの時に町並みや参道整備が行われ、清潔で魅力ある参道に生まれ変わった。(林 清)
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補足情報

*仁王門:1918(大正7)年に再建されたもので、左右に立つ阿吽の仁王像は、高さ約6m。高村光雲とその弟子米原雲海の代表作である。憤怒の形相は力強く参拝者を圧倒する。
*山門:1750(寛延3)年の建築で、屋根は栩葺き、入母屋造の門。楼上には、文殊菩薩騎獅像と四天王像が安置されている。
*本堂(金堂):1707(宝永4)年の建築。間口約24m、奥行き約54m、建物の高さ約29mという壮大なものである。屋根は総檜皮葺き。棟は丁字形をした撞木(しゅもく)造。撞木は、鐘をたたく木槌で丁字形をしており、同様の形からこの名がある。
*牛にひかれて善光寺参り:昔、信濃の十県の山あいの村に住んでいた欲深い老婆が、さらしていた布を一頭の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着いた。光明に照らされた牛のよだれが一文字に浮かび、それを読み取った老婆が心動かされ、信仰の道に入ったという言い伝えがある。
*輪蔵まわし:一切経6,771巻が納められている輪蔵を廻すことにより、一切経を読踊したと同じ功徳が得られる。
*びんずるさま:釈迦の弟子の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像で、自らの患部と同じところを撫でると痛みが和らぐといわれている。
関連リンク 善光寺(WEBサイト)
参考文献 善光寺(WEBサイト)
こもろ観光局(一般社団法人こもろ観光局)(WEBサイト)
「長野市ここから旅の始まり」 長野市ガイドブック 
ながの観光net(公益財団法人ながの観光コンベンションビューロー)(WEBサイト)

2022年09月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。

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