鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう

鎌倉駅の北東、若宮大路の突きあたりにある。1063(康平6)年源頼義が奥州の前九年の役平定の後、京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に現在の由比若宮を勧請し、その後1180(治承4)年鎌倉に本拠を置いた源頼朝は、大臣山のふもとに由比若宮を遷し、1191(建久2)年には大臣山の中腹に新たに御社殿を造営して源氏の守護神とした。これが現在の鶴岡八幡宮である。
 三ノ鳥居をくぐって太鼓橋を渡ると源平池*があり、さらに進むと舞殿*、その右手に若宮*、正面の大石段を登ったところに、楼門・回廊をめぐらした本宮*がある。このほか境内には末社も多く、鎌倉国宝館、鎌倉文華館なども建てられている。
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みどころ

一ノ鳥居、二ノ鳥居、段葛、三ノ鳥居、そして舞殿、御本殿と、神社を崇める設計の基本がよくできている。賑やかな小町通りに足が向きがちだが、段葛を通った方が神社に向かうための心構えができる。静の舞、倒れた大イチョウ*は歴史的な事件を理解したうえで見ると、味わいが深まる。時期が合えば、流鏑馬を見るのをお勧めしたい。
 また、鶴岡八幡宮の背後の山は、日本にナショナルトラストがつくられるきっかけとなった場所。段葛から八幡宮をながめ、自然及び歴史・文化の保護の大切さに思いをはせてほしい。(溝尾 良隆)
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補足情報

*源平池:三ノ鳥居をくぐってすぐのところ。1182(寿永元)年、神前の御手洗池として3町あまりの水田を開削して築造された。太鼓橋をはさんで東を源氏池、西を平家池と呼び、頼朝の妻政子は、東池に3(産)島と白蓮を配し、西池に4(死)島と赤蓮を配して源氏の戦勝を祈願したという。現在の太鼓橋は石橋だが、むかしは朱塗の木橋で赤橋と呼ばれていた。太鼓橋を一気に駆け登ると、男は立身出世、女は安産するとのいい伝えがある。
*舞殿(下拝殿):太鼓橋を渡った正面に立つ。入母屋造、唐破風、朱塗極彩色の舞殿で、静御前*が舞ったといわれる鶴岡若宮の廻廊に、鎌倉時代に建築されたのが最初。現在の建物は関東大震災後の再建である。4月の鎌倉まつりではここで静の舞が奉納される。
*若宮(下宮):下拝殿の東にある。1192(建久2)年源頼朝により本宮(上宮)と若宮(下宮)の現在の姿に整えられた。仁徳天皇・履仲天皇・仲之媛命・磐之媛命の4柱を祀っている。現在の権現造*、朱塗の社殿は、1624(寛永元)年造替したもので、江戸初期の神社建築様式を伝える。
*本宮:下拝殿背後の大石段を登ったところにある。1828(文政11)年、11代将軍徳川家斉が再建したもので、流権現造、朱塗。蟇股などに極彩色を施した華麗な建築である。正面に楼門、左右に廻廊をめぐらし、後ろに背負う大臣山との調和が美しい。
*大イチョウ:本宮社前の大石段下左手にあった高さ約30m、目通り周囲約7mの老大樹で、県の天然記念物の大イチョウが2010(平成22)年3月に根元から倒れてしまった。現在は倒伏した痕跡をみることになる。大イチョウは1219(承久元)年3代将軍源実朝が、甥の公暁(くぎょう)*に刺殺された伝説に因み、隠れイチョウとも呼ばれていた。
*権現造:桃山時代に起こった建築様式。本殿と拝殿を板敷の石間でつなぎ、一連の建物としたもの。そのため外部内部構造とも複雑になっている。
*公暁:1200~1219年。鎌倉2代将軍頼家の第3子。幼名善哉。頼家の横死後に出家、名を公暁と改め、鶴岡若宮の別当職に任ぜられた。叔父の実朝を父の仇と狙い、正月27日の雪の夜、右大臣拝賀の式を終えた実朝を襲った。公暁もただちに執権北条義時の命によって殺され、これによって源氏の正統が絶えた。
*静御前:生没年不詳。京の白拍子、源義経の愛妾。義経が兄頼朝に追われて京を去るとき静も従ったが、吉野山で別れたのち捕えられ鎌倉に送られた。頼朝と政子の所望で鶴岡若宮の廻廊で舞ったとき、““しずやしず賎のをだまきくり返し、むかしを今になすよしもがな““と義経への思慕をうたい、満座の感動をよんだ話は有名。静はのちに尼になったと伝えられる。
*本宮楼門の内側の西回廊が宝物殿に当てられている。工芸品・刀剣類・考古資料等の御社宝を展示公開する。
関連リンク 鶴岡八幡宮(WEBサイト)
参考文献 鶴岡八幡宮(WEBサイト)

2020年04月現在

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