史跡慧日寺跡しせきえにちじあと

JR磐越西線磐梯町駅北約1.5km、磐梯山へ連なる山並みの山裾にある。平安時代初期に徳一*が開いた慧日寺は、江戸後期の『新編会津風土記』によると、「徳一當寺ニスミセシヨリ以來相續テ寺門益繁榮シ子院モ三千八百坊ニ及ヒ數里ノ間ハ堂塔軒ヲ比シ」たという。徳一は南都仏教の法相宗の出身だが、同寺は山岳信仰と密接な関係があり、磐梯山を奥院として成立したものと考えられている。その後宗派も真言宗*に転宗し最盛時には山岳信仰との融合がより進んだと言われている。16世紀に入ると衰退の兆しが見え、1589(天正17)年伊達政宗の兵火に焼失し、のちに再建されたものの明治の神仏分離令によって廃寺となった。現在、旧慧日寺跡の隣接地に恵日寺があるが、明治後期に子院がその名を継いだものである。
 広い寺跡には、中門、金堂や金堂内にある本尊の薬師如来像が復元されており、そのほか初期の講堂、食堂などの礎石や石塔が遺されている。寺跡の東側には、徳一の墓と伝わる平安時代の石塔(徳一廟)があり、江戸後期建立の仁王門、明治になって再建された薬師堂なども移築されている。さらに北東の高台に、かつて寺跡地にあり2000(平成12)年に移転した磐梯神社がある。
 また、寺跡の南西側は庭園が整備され磐梯山慧日寺資料館があり、慧日寺に関する歴史や山岳信仰との関係に関する資料などを紹介、展示している。
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みどころ

司馬遼太郎は徳一について、「かれがいた八、九世紀の鄙は草深かったが、会津だけはかれ一人によって灯台のようにはるかな都を照射していた。ともかくもこの知的豪傑が、ただ一人で旧仏教(奈良仏教)を代表し、新仏教(平安仏教)の最澄と論戦し、最澄をくるしめつづけた」と、地方にいながらにして、最先鋭であった最澄との間で知的闘いを12年にも渡って行ったと記している。その法論や布教活動の知的基盤が慧日寺だった。こうした知的基盤がこの地に生まれたのは、徳一が実践的な活動を通じ会津の民衆に仏教を深く浸透させたからだと考えられる。この点を五木寛之は「当時、磐梯山の大噴火によって、たくさんの人びとがいのちを奪われ、家や田畑を失い、なげき悲しんでいた。一心に救いを求める彼らのすがたを見ていた徳一は、磐梯山のふもとに寺を建て、山を鎮めることで人びとを安心させようとしたのではないか」と推察している。磐梯山の山裾に復元された金堂とその遺跡を見て回ると、当時のこの地の重要性を改めて知ることができる。
 寺跡の南東側にある磐梯山慧日寺資料館は、規模は小さいながら徳一の事績や磐梯山に関する山岳信仰などの資料、パネルで要領よく、適切に展示、解説をしてくれている。
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補足情報

*徳一:生没については諸説あるが、700年代後半から800年代前半であることは一致している。奈良の興福寺で法相宗を学び、20歳の頃には東北地方で仏教の広布に努めていた。徳一は山林修業によって生まれながらの知を習得する「自然智宗(じねんちしゅう)」の実践者であったことから、磐梯山の山裾を本拠としたともいわれている。また、新しい仏教として興った天台宗の最澄や真言宗の空海と南都(奈良)仏教を代表して会津の地から激しい法論を繰り返し、とくに最澄との論争は有名である。
*真言宗:真言宗に転宗したため、『新編会津風土記』によれば、同寺には空海を開祖とする縁起があるとされるが、開創の時期には空海は九州筑前に居たことや『今昔物語』など複数の古書に徳一が建てたと記されているとして「徳一ノ開基トハ見エタリ」としている。
関連リンク 磐梯山慧日寺資料館(WEBサイト)
参考文献 磐梯山慧日寺資料館(WEBサイト)
『街道をゆく 33 白河・会津のみち、赤坂散歩』司馬遼太郎 朝日新聞出版司馬遼太郎. 街道をゆく 33 白河・会津のみち、赤坂散歩 (Kindle の位置No.4038). . Kindle 版.
『新編会津風土記巻之五十三』万翠社 国立国会図書館デジタルコレクション
国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト)
『百寺巡礼 東北』五木寛之 講談社文庫

2023年07月現在

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