勝常寺しょうじょうじ

JR磐越西線会津若松駅から国道121号線経由で北西に約10km、田園風景が広がる湯川村のこんもりとした木立の中に勝常寺はある。
 寺伝によれば、810(弘仁元)年に慧日寺の開祖でもある徳一*が開創したといわれている。中世には一時衰退したが、仁和寺の僧玄海が再興し、会津を支配していた芦名氏の庇護をうけ、七堂伽藍が備わり100ヶ寺ほどの末寺を有する真言宗の大寺院として栄えた。しかし、その後、16世紀後半からは戦乱に巻き込まれるなどし、現在残されている往時のものは、1398(応永5)年に建立された薬師堂(元講堂)*と仏像群のみである。仏像群のうち、木造薬師如来及両脇侍像*は国宝に指定され、薬師如来像は国の重要文化財に指定されている薬師堂(元講堂)に本尊として鎮座しており、脇侍像と国の重要文化財の仏像9躯(一部貸出し中のものある)などは、薬師堂(元講堂)の右手前にある収蔵庫に納められている。
 現在、境内、周辺の発掘が進められているが、往時の伽藍配置は、薬師堂(元講堂)を起点として南に向い金堂・中門・南大門の位置が一直線上に配置されていたとされている。なお、現在の勝常寺の本坊は、近世に再建されたという中門の左手、少し離れた場所に建つ。薬師堂(元講堂)内や収蔵庫にある仏像群の拝観は事前の予約が必要。
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みどころ

境内に入るには、南側の室町期の用材を使って近世に再建されたという中門(仁王門)をくぐることになるが、この中門はなんとも素朴で簡素であり、仁王像も親しみのある顔の造りになっている。中門の先にある薬師堂(元講堂)も五木寛之が『百寺巡礼』で「そびえているというのではなく、 周囲の畑や家々に包まれて、ひっそりとそこにあるという感じ」と描写しているとおり、屋根のそりが伸びやかで素晴らしい。
 国宝・重要文化財の仏像群12躯を始めとする仏像群は東北地方では屈指のものであり、本尊の薬師如来について、五木は「なんと堂々とした大きな仏様なのだろう。その陰影の深さ、そして吸いこまれるような静けさ。外から聞こえてくるのは、木の葉のそよぎと鳥の声くらいにすぎない。この空間にいると、自然に頭をたれ、両手を合わせたいという気持ちになってくる」と描写し、さらに「みちのくの風土のなかに、どっしり根をおろしたという感じのする薬師如来像だった」とも記している。ここでは力強い東北の仏教の黎明期の息吹を感じたい。
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補足情報

*徳一:生没については諸説あるが、700年代後半から800年代前半であることは一致している。奈良の興福寺で法相宗を学び、20歳の頃には東北地方で仏教の広布に努めていた。徳一は山林修業によって生まれながらの知を習得する「自然智宗(じねんちしゅう)」の実践者であったことから、磐梯山の山裾を本拠としたともいわれ、慧日寺をはじめ会津地方を中心に多くの寺院を開いた。また、新しい仏教として興った天台宗の最澄や真言宗の空海に対し南都仏教を代表して会津の地から激しい法論を挑み、とくに最澄との論争は有名である。
*薬師堂(元講堂):1398(応永5)年の再建ものといわれ、再建当初は茅葺きであったが、1963(昭和38)年の大雪で大破し、銅板葺きとなっている。 桁行五間(9m)、梁間五間(9m)、木造の単層寄棟造で和様の手法に唐様が加えられている。内部は内外両陣にわかれており、内陣は方三間(5.4m)、中央には須弥壇が設けられている。「会津中央薬師」とも呼ばれるが、江戸後期の『新編会津風土記』では「大同中空海此地に來り、自ら薬師の像を刻み、勝地を撰て五箇所に安ず、東に本寺村、北に漆村、南に堤澤村、西に宇内村、中央は此佛なり、因て中の佛と云」とその由縁となっている伝承を紹介している。
*国宝の木造薬師如来及両脇侍像:東北地方における平安初期の仏像彫刻を代表する作例。中央の薬師如来像は通例通り左手に薬壷を載せているものの、大衣を両肩を覆って着ているのが特徴的。肩幅の広いがっしりした体躯と、身に付けた大衣の深くうねるように刻まれた襞の表現によって、量感豊かな仏像にしている。三像ともにケヤキ系のほぼ一材からの彫成。用材から判断すると当地で彫られたみられるが、その造形技術は際立って優れたものとされる。製作時期は9世紀も前半とみられる。

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