角館武家屋敷のシダレザクラかくのだてぶけやしきのしだれざくら

角館の現在の町割りは、蘆名義勝*1により元和年間(1615~1624年)にこの地に開かれ、1656(明暦2)年、秋田(久保田)藩から佐竹(北家)義隣(よしちか)*2が所預(ところあずかり・所司代)として任ぜられ入部した。以降約200年間、明治の廃藩置県まで支配し武家屋敷*3の内町や町人の外町などの整備が進められた。シダレザクラは、佐竹北家の入部以降に植えられたものとされ、2代目の妻が三条西家から嫁入りする際にもたらしたとの説も伝えられるが確たる記録はない。ただ、明和年間(1764~1772年)には秋田藩藩士で儒学者であった益戸滄洲が東勝楽丁入口西側にあった梅津定右衛門屋敷内の枝垂桜を「千百の糸を垂れている桜はその長きこと百尺、霧を帯び雲を栽って下にむかう。恰も万片の雪が軽く綿の様に風前に舞い、又千仞の飛瀑が大空にひるがえって半天にかかる」などと漢詩に詠んでいるところから、すでに江戸中期には武家屋敷に植栽されていたとみられる。
 しかし、1900(明治33)年の大火で焼失したシダレザクラも多かったという。その後、住民の尽力により、焼失を免れた木から順次植栽を増やし、なかには胸高直径1mを越える木や樹高は20mを越すものもあり、現在、シダレザクラは市街地に約400本が植えられている。このうち、162本が、国指定の天然記念物となっている。角館のシダレザクラはエドヒガンがシダレとなったもので花色は白系と淡紅系である。武家屋敷のシダレザクラは開花期は4月中旬から5月上旬。武家屋敷まではJR秋田新幹線・田沢湖線角館駅から1.2kmほど。
 なお、角館の周辺では、名産品の樺細工の材料として、ソメイヨシノ以外にもオオヤマザクラ(ベニヤマザクラ)が数多く植栽されている。こちらのサクラの開花期は4月から5月で、花は淡紅色、若葉も赤みを帯びているので樹木全体として赤みがかって見えるのが特徴。
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みどころ

1908(明治41)年発行の「秋田県案内記」には「當地は櫻花の名所にして垂枝櫻の種類に属し莟(つぼみ)を破らざるとき珠を綴れる如し勝樂町最も多くして老樹枝を交しへ花時の景光花洛に入りし如き觀ありしも近年の大火に遭い悉く炭化せり」として、江戸期から見事なシダレザクラの景観があったが、明治期の大火で多くを失ったとしている。その後、官民を挙げ遺された武家屋敷を維持保存し、シダレザクラの植栽が拡大され、現在は一部の地域ではあるものの往時の景観を取り戻すに至っている。
 シダレザクラは何と言っても黒板塀越しに対照的な色合いである白色あるいは淡紅色の花が「珠を綴れる」ごとき光景であり、まさにタイムスリップしたような心地で時を忘れさせてくれる。夜のライトアップも必見だ。
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補足情報

*1 蘆名義勝:最初は義広、のちに盛重、義勝(角館時代)と改名。1575~1631。常陸太田城の城主佐竹義重の次男として生まれ、会津蘆名氏を継ぐが滅亡し、佐竹家の家臣となり、佐竹家の転封とともに角館に所預(所司代)として入部した。義勝に継嗣がなく、断絶したため、佐竹(北家)義隣が入部することになった。
*2 佐竹(北家)義隣(よしちか):佐竹北家は、佐竹本家が常陸国を支配してた頃、本拠地常陸太田城の北の支城を任せられていたことにから、北殿と呼ばれ、その後、北家と称されようなった。本家とともに常陸から秋田へ転封し、1656(明暦2)年、北家8代目の義隣(1619~1702年)が本家から所預(所司代)として任ぜられ、幕末まで同地を支配した。義隣は京都の高倉大納言の子(母は佐竹義重の娘)で、北家9代目の義明の妻も三条西家の出であったため、京都からの文化の流入も盛んであったという。
*3 武家屋敷:三方になだらかな丘陵が連なり、玉川と桧木内川の合流点あたりに町割りがなされた。古城山の真下にあたる表町や東勝楽丁は道の両側に黒板塀が連なり、薬医門を構えた武家屋敷がひっそりと続く。表町の武家屋敷が残る一帯約7万m2は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。内部まで見学できるのは、表町の青柳家・石黒家、東勝楽丁の岩橋家・小田野家・河原田家、小人町の松本家。そのほかの家は、外から眺めるだけだが、情緒は充分に味わえる。石黒家、青柳家、河原田家の蔵は内部の見学が可能。角館は江戸時代に下級武士が手内職に始めたという山桜の皮を利用した樺細工でも知られている。茶入、整理箱などの工芸品があり、使い込むほどに光沢が出る。樺細工伝承館で実演展示や販売がなされている。

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