法隆寺ほうりゅうじ

JR法隆寺駅から法隆寺南大門まで北へ約1.5km。聖徳太子ゆかりの斑鳩の里にあり、斑鳩寺*1とも呼ばれた。矢田丘陵南端の山裾を背に立ち並ぶ金堂・五重塔などの伽藍は、現存世界最古の木造建築といわれる。
 法隆寺の歴史は金堂の薬師如来光背銘*2によると、607(推古天皇15)年に聖徳太子と推古天皇が創建したとされる。ただ、日本書紀には670(天智天皇9)年に伽藍を焼失*3したとの記事があり、現伽藍は白鳳時代の7世紀末から8世紀初頭に再建*4されたものとみられている。夢殿のある東院は739(天平11)年ごろに造営された。その後、しだいに官寺化した法隆寺は都が奈良を離れても朝廷の崇敬を受け、平安時代以降は興福寺の支配下に入る。太子信仰*5の発展とともに諸堂が拡充整備され、東大寺や興福寺のように戦乱の場となったり、大火を受けたりすることもなく、多くの堂宇には、膨大な仏像・絵画・工芸品が伝えられてきた。室町後期から戦国時代の混乱で一時衰退したものの、慶長・元禄の大修理*6で旧観に復し繁栄した。明治維新に大部分の寺領を失った打撃もやがて復興され、1949(昭和24)年、修理中の金堂から出火し壁画を焼損するという大難があったものの、現在も金堂*7・五重塔*8のある西院伽藍と夢殿*9のある東院伽藍で構成される広大な寺域を擁し、古代飛鳥の息吹を今に伝えている。
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みどころ

拝観順路としては、松並木の参道から南大門を経て中門前を左へ行き、西室・西円堂*10をまわり、回廊内の金堂・五重塔などを拝した後、寺宝の一部が公開されている大宝蔵院*11を鑑賞して東院伽藍へ向かうのがよい。
 みどころは沢山にあるが、やはり、金堂、五重塔、大宝蔵院、夢殿ははずせない。金堂は全体の均衡もきわめてよい建造物で、五重塔も安定した美しい外観をもつ木造塔と評されることが多い。哲学者の和辻哲郎は「あの金堂の屋根の美しい勾配、上層と下層との巧妙な釣り合い、軒まわりの大胆な力の調和。五重塔の各層を勾配釣り合いとでただ 一本の線にまとめ上げた微妙な諧調。そこに主としてわれわれに迫る力があるに相違ないでしょう」とその迫力を描写している。とくに五重塔の外観の美しさを鑑賞するなら、逆光のシルエットでみるのもお勧めする。屋根のそりや各層のリズム、宝珠、水煙、九輪などの装飾品の美しい姿が浮かび上がる。
 数多くある仏像はどれも素晴らしいが、例えば、大宝蔵院の百済観音堂に安置されている「百済観音」について、文芸評論家の亀井勝一郎は「その白味がかった体 軀が焰のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焰のようであった」とその姿の存在感について、書き綴っている。
 また、大宝蔵院から築地塀沿いに東に向かった東院伽藍の夢殿について、和辻哲郎は「夢殿の印象は粛然としたものであった」とし、さらにそこに安置されている救世観音立像については「悠然として異様な生気を帯びた顔が浮かんでいる。その眉にも眼にも、また特に頬にも唇にも、幽かな、しかし刺すように印象の鋭い、変な美しさを持つ微笑が漂うている」と、その印象を書き記している。これは、米国人の東洋美術史家フェノロサとともに救世観音を見出した岡倉天心が「端厳の御像を仰がる。実に一生の快事なり…中略…光背に畫(画)ける焔の如き殊に鮮明なり。顔容は、上頬高く下頬落つ。これ推古時代の佛像通有の様式にして、頭部四肢大に、鼻邊の筋深し」と、この仏像と対面した時の岡倉の感激に通じるものがある。
 法隆寺については、多くの作家、俳人・歌人、学者たちが言葉を尽くし、多くの著作を発表しているので、それを片手に境内を巡るのも興味が深まるだろう。すくなくとも半日はかけてゆっくり日本の仏教文化の原点を味わいたいものだ。
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補足情報

*1 斑鳩寺:日本書紀の皇極天皇2(643)年に、蘇我入鹿に攻められた山背大兄王の一族が「斑鳩寺」で集団自決したとの記事がある。
*2 金堂の薬師如来光背銘:金堂の薬師如来像の光背には「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」(用明天皇が病気になった折(586年)、平癒を祈り、伽藍建立と造仏を発願したが果たさず崩御した。その遺志を継いで推古天皇・聖徳太子が伽藍と薬師像を推古天皇15(607)年に建立した)と記されている。
*3 焼失:日本書紀の天智天皇9(670)年の条に「夏四月癸卯朔壬申(4月30日夕方)。夜半之後灾(ヒツケリ・災)法隆寺、一屋無餘(アマルコトナシ)、 大雨雷震(ヒサメフルイカヅチナル)」と記録されている。
*4 再建:再建の有無、時期については、明治以来、日本書紀などを典拠とする黒川真頼・小杉榲邨らの再建説、建築上の尺度、干支解釈の誤りを理由とする関野貞・平子鐸嶺らの非再建説があり、さらに喜田貞吉・足立康らの大論争があった。1939(昭和14)年の若草伽藍発掘により、ほぼ白鳳再建が確認されたものの、世界最古の地位は不動である。
*5 太子信仰:聖徳太子を救世観音として信奉する。飛鳥・白鳳時代は太子は宗教的な信仰対象ではなかったが、奈良時代に法隆寺夢殿や四天王寺で奉斎会が営まれるようになり、太子信仰につながった。その後、法隆寺と四天王寺を中心に仏舎利と救世観音(太子)を拝して往生の安心を得る太子信仰が形成された。さらに大衆化し太子堂が設けられ、太子講などが各地で盛んになった。
*6 慶長・元禄の大修理:慶長の折りは豊臣秀頼、元禄の折りには徳川綱吉の母桂昌院の援助による。
*7 金堂:国宝。桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺、もこし板葺。670(天智天皇9)年の火災後に建立された法隆寺西院伽藍の最古の中心的な建物で、中門・廻廊に囲まれ、大講堂と五重塔が並ぶように建っている。金堂には国宝の薬師如来像以外にも国宝の釈迦三尊像があり、この仏像には、光背銘があり、623(推古天皇31)年に「司馬鞍首止利佛師造」(作ったのは仏師の鞍作止利)であるとしている。そのほか、国宝の吉祥天像、四天王像や重要文化財の阿弥陀三尊像などが安置されている。1949(昭和24)年の火災では貴重な壁画が焼損している。この火災が契機に文化財保存の重要性が社会に広く理解され、1950(昭和25)年5月に文化財保護法案が国会で成立し8月から施行された。なお、現在、1935年(昭和10)年に撮影された法隆寺金堂壁画写真ガラス原板のデジタル画像が公開されており、インターネットで細部まで閲覧・鑑賞することができる。
*8 五重塔:国宝。三間五重塔婆、初重もこし付、本瓦葺、もこし板葺。二重基壇上に建ち、組物は雲斗雲肘木、一軒角垂木など、金堂同様の独特の様式をもつ。心柱は地中に心礎を据えて掘立柱とし、二重以上は柱盤の上に短い丸柱を立て、順次積上げている。屋根は初重(層)から一辺の長さが五重(層)目の屋根に向け逓減し、五重目は初重の屋根のおよそ半分の長さになっており、塔身もまた、下層から上層に向かい細身となっている。これが塔のシルエットの美しさにつながっている。また、この塔は金堂に引き続き建立されたもので飛鳥様式を色濃く伝えていると考えられている。
*9 夢殿:国宝。「法隆寺東院縁起」によると739(天平11)年の建立とされ、761(天平宝宇5)年の「法隆寺東院資財帳」にも夢殿の記録があることから、この時期の建立だと推定されている。八角円堂、一重、本瓦葺。屋根頂上の露盤宝珠は華麗な光明を放ち、夢殿のシンボル的な意匠となっている。夢殿には本尊で国宝の「救世観音立像」のほか、夢殿など東院伽藍を建立した行信の「行信僧都坐像」(国宝)も安置されている。なお、「行信僧都坐像」は常時公開だが、「救世観音立像」は春秋の特別公開のみ拝観可能。
*10 西円堂:法隆寺境内の西北隅にある八角堂で、現在の建物は1250(建長2)年の再建。国宝に指定されている。また、西円堂の北東奥には、天武天皇の皇子、舎人親王の発願で建立した上御堂があるが、現在の建物は鎌倉時代の再建で国指定の重要文化財。堂内には国宝の釈迦三尊像(平安期作)などが安置され、例年11月上旬に開扉される。
*11 大宝蔵院:百済観音堂を中心に東西の宝蔵からなる。1998(平成10)年竣工。院内には、国宝の百済観音立像、夢違観音像、地蔵菩薩像、玉虫厨子、伝橘夫人念持仏及び厨子などが収蔵、安置されている。

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