中宮寺
JR関西本線(大和路線)法隆寺駅から北へ約1.5km、法隆寺東院(夢殿)の北東に接しているが、室町時代(16世紀前半まで)は東方約500m*1にあり、斑鳩尼寺(いかるがにじ)とも呼ばれた。創建年代については諸説*2があるが、聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御所を寺としたと伝え、法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立された斑鳩地方最古の寺院のひとつであるとされている。平安時代以降衰退したが、1602(慶長7)年から門跡寺院となり今日に及んでいる。池をめぐらした瀟洒な本堂に本尊である国宝の菩薩半跏思惟像*3(伝・如意輪観世音菩薩)を安置し、天寿国曼荼羅繍帳*4(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)の複製を展示する。
みどころ
法隆寺の夢殿の北側に中宮寺の拝観入口がある。現在の本堂は1968(昭和43)年に高松宮妃殿下の発願で再建されたもので、2021(令和3)年に修復された。周囲には山吹が植えられており春に黄色の花を咲かせる。開け放たれた本堂内には半跏思惟の像で知られる菩薩像が安置され、間近で拝観することができる。文芸評論家の亀井勝一郎が「深い 瞑想の姿である。半眼の眼差は夢みるように前方にむけられていた。稍々うつむき加減に腰かけて右足を左の膝の上にのせ、更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが、このきっちりと締った安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。厳しい法則を柔かい線で表現した技巧の見事さにも驚いた」と評した通り、まさにアルカイックスマイル(古典的微笑)と気品の高い姿に心打たれるものがある。じっくりと向かいあいたいものである。
補足情報
*1 東方約500m:旧地が鵤(いかるが)宮・岡本宮・葦垣宮の中心にあたるため中宮寺と名付いたといい、四天王寺式の伽藍配置であった。現在、この場所は中宮寺跡史跡公園として整備されている。
*2 諸説:中宮寺跡の発掘調査の出土品などから、創建は7世紀前半と推定され、寺域の形が整えられたのは7世紀後半とみられている。1914(大正3)年発行の「大和志料」では、621~622(推古天皇29~30)年の間の創建と推論している。
*3 菩薩半跏思惟像:寺伝では如意輪観世音菩薩というが、弥勒菩薩と考えられている。飛鳥後期の作になり、右足を組み、右手を頬に触れようとする表情もやさしい。クスノキ材を用い、内刳りの深い寄木造風の構造をもち、もとは金銅透彫の宝冠や胸飾りがあった。
*4 天寿国曼荼羅繍帳:絹地に色糸で人物や草木を刺繍したもので、聖徳太子の死を悲しむ妃橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、太子の往生した天寿国を偲ぶため作らせたと伝える。天寿国は極楽浄土を表わしており、その国中に描かれた100の亀の背に、それぞれ4文字が記され、繍帳の由来を伝えていた。その全文が「上宮聖徳法王帝説」にあり、東漢末賢らに下絵を描かせ、多くの采女に刺繍させたことが知られる。縦5m、横1.5mの2張あった原本の断片を約1m四方に整えた。
*2 諸説:中宮寺跡の発掘調査の出土品などから、創建は7世紀前半と推定され、寺域の形が整えられたのは7世紀後半とみられている。1914(大正3)年発行の「大和志料」では、621~622(推古天皇29~30)年の間の創建と推論している。
*3 菩薩半跏思惟像:寺伝では如意輪観世音菩薩というが、弥勒菩薩と考えられている。飛鳥後期の作になり、右足を組み、右手を頬に触れようとする表情もやさしい。クスノキ材を用い、内刳りの深い寄木造風の構造をもち、もとは金銅透彫の宝冠や胸飾りがあった。
*4 天寿国曼荼羅繍帳:絹地に色糸で人物や草木を刺繍したもので、聖徳太子の死を悲しむ妃橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、太子の往生した天寿国を偲ぶため作らせたと伝える。天寿国は極楽浄土を表わしており、その国中に描かれた100の亀の背に、それぞれ4文字が記され、繍帳の由来を伝えていた。その全文が「上宮聖徳法王帝説」にあり、東漢末賢らに下絵を描かせ、多くの采女に刺繍させたことが知られる。縦5m、横1.5mの2張あった原本の断片を約1m四方に整えた。
関連リンク | 中宮寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
中宮寺(WEBサイト) 和辻哲郎「完全版『古寺巡礼』他48作品」 Kindle 版 亀井勝一郎「大和古寺風物誌」 Kindle版 「大和志料 上巻」奈良県教育会 大正3年 343/446 国立国会図書館デジタルコレクション 斑鳩町「中宮寺跡」パンフレット |
2024年12月現在
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