法輪寺ほうりんじ

JR関西本線(大和路線)法隆寺駅から北へ2.6km、法隆寺から北へ1.5kmほどのところにある。法琳寺あるいは三(御)井寺(みいのてら)とも称された。創建には2説が伝えられている。一つは、670(天智天皇9)年の斑鳩寺(法隆寺)焼失後、3人の高僧が合力して造寺したとする説*1。もう一つは622(推古天皇30)年に聖徳太子の長子、山背大兄王が聖徳太子の病気平癒を祈願して建立したとする説*2である。伽藍配置は法隆寺式であり、出土する瓦の文様が法隆寺のものと類似していることや、飛鳥様式の薬師如来坐像*3と虚空蔵菩薩立像*4が伝えられているところからも、7世紀末頃には寺観が整ったとみられている。
 中世に入り、火災などで衰退し、さらに1645(正保2)年に堂宇の大半が台風で倒壊したものの、三重塔のみが2層までだが遺ったと伝えられている。その後、江戸時代中期には仏像、堂宇などの修復が順次行われ、宝暦年間(1751~1764)までに三重塔が修復され、現在の金堂、旧講堂、南大門などが復興された。しかし、1944(昭和19)年に落雷で三重塔が焼失した。
 現在は、1960(昭和35)年に旧講堂の位置に建立された収蔵庫に、金堂や旧講堂の仏像を安置。また、作家の幸田文や信徒の支援を得て1975(昭和50)年に創建当初の様式で再建された三重塔が建つ。
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みどころ

1942(昭和17)年に法輪寺を訪れた文芸評論家の亀井勝一郎は「中宮寺界隈の小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、遥かに三笠山の麓にいたる、古の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される」と法輪寺の立地を描写しているが、現在は、遠望する奈良盆地の建物は近代化されてはいるものの、同寺の周辺の景観は亀井が訪れた当時とさして変わっていない、斑鳩の里らしい雰囲気を残す。亀井が訪れた頃は、まだ、境内は荒廃しており、「古寺を訪れる初心とは、つまりは発心であり、祈りの心の湧きおこるときでなければならぬ。荒廃という死に近き刹那の裡に、千年の塵に蔽われた端厳のみ仏を拝し、愛惜の情に身を委ねるにしくはない」とまで言わしめるほどの状態だったようだ。しかし、現在は、境内、伽藍は「勿体ぶっている様」もなく、適切に復興されている。この寺の見どころは、なんといっても、収蔵庫にある面長ですらっとした姿であるものの、柔らかさも感じさせる薬師如来坐像や、「茫漠とした表情のまま左手に壺をさげて悠然直立している(亀井勝一郎)」虚空蔵菩薩立像などの仏像群だ。
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補足情報

*1 合力による造寺説:平安時代初期に成立した「上宮聖徳太子伝補闕記」では「斑鳩寺被災後…中略・・・百濟聞法師。圓明師。下氷君雑物等三人合造三井寺」(斑鳩寺被災後・・・百濟聞法師、圓明師、下氷君雑物の3人で合力して三井寺を造った)と記している。
*2 病気平癒祈願による建立説:鎌倉時代前半に法隆寺の僧侶顕真による「聖徳太子伝私記(古今目録抄)」では「建立之様。似法隆寺。此推古天皇ノ年中所建。云云百濟開法師。圓明法師。下氷新物等。三人合テ造ルト云云。」(建立の様は法隆寺に似ている。百濟開法師、圓明法師、下氷新物、3人で合力して造ったといわれている)として「上宮聖徳太子伝補闕記」と同様の記載はあるが、「下氷新物者。即大兄王歟」(下氷新物は山背大兄王ではないか)ともしている。さらに「爲太子御悩消除推古天皇卅年壬午歳。大兄王竝由義等。立此寺。云云大施主者。膳妃也。」(聖徳太子の病気平癒を祈って太子の長子、山背大兄王とその子・由義王がこの寺を建立した。施主は太子の妃、膳妃である)とも記している。
*3 薬師如来坐像:かつては金堂に安置されていた法輪寺の本尊。飛鳥時代の作。像高110.6cm。クスノキ材の一木造で、一部寄木組みの技法が取り入れられており、内刳(うちぐり)は見られない。薬壷を持たない古い形式の薬師如来像。
*4 虚空蔵菩薩立像:本尊の薬師如来坐像とともに金堂に安置されていた。飛鳥時代の作。像高175.4cm。寺伝では虚空蔵菩薩としているが、左手に水瓶をもち、右手は屈臂仰掌している姿から観音菩薩ではないかとも考えられている。クスノキ材の一木造で、蓮華座の上に両足をそろえ、直立する。

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