北口本宮冨士浅間神社
富士急行線富士山駅の南約2km、国道138号に面している。一般には略して冨士浅間神社と呼ばれている。110(景行天皇40)年にその起源をもつ*と伝えられる。江戸期に入ると、富士講*など富士山信仰の登拝による富士北口登山道の基点として、また、遥拝の場所として多くの信者を集めていた。
参道の両側には燈篭が並び、赤い大鳥居*をくぐり、随神門、神楽殿を通り、拝殿・本殿*に至る。その裏手には東宮、西宮*が鎮座する。境内は老杉に囲まれて落ち着いた雰囲気がある。拝殿の右奥には摂社で当地の産土神と伝えられる諏訪神社がある。神社の周辺一帯は諏訪の森と呼ばれるアカマツ林が広がる。境内の裏手には吉田口登山道の起点となる「登山鳥居」があり、その先、150mほどのところにある大塚丘は、社殿が造営される前の富士山の遥拝所だったといわれる場所である。
例年、6月30日と7月1日に富士山の山開きが催され、また、8月26日、27日には本社と摂社の諏訪神社の祭りとして「吉田の火祭り」が開催される。祭神は富士山の女神である木花開耶姫命、その夫となる彦火瓊瓊杵尊と父神で山の神である大山祇神。
参道の両側には燈篭が並び、赤い大鳥居*をくぐり、随神門、神楽殿を通り、拝殿・本殿*に至る。その裏手には東宮、西宮*が鎮座する。境内は老杉に囲まれて落ち着いた雰囲気がある。拝殿の右奥には摂社で当地の産土神と伝えられる諏訪神社がある。神社の周辺一帯は諏訪の森と呼ばれるアカマツ林が広がる。境内の裏手には吉田口登山道の起点となる「登山鳥居」があり、その先、150mほどのところにある大塚丘は、社殿が造営される前の富士山の遥拝所だったといわれる場所である。
例年、6月30日と7月1日に富士山の山開きが催され、また、8月26日、27日には本社と摂社の諏訪神社の祭りとして「吉田の火祭り」が開催される。祭神は富士山の女神である木花開耶姫命、その夫となる彦火瓊瓊杵尊と父神で山の神である大山祇神。
みどころ
三島由紀夫は小説「豊饒の海 暁の寺」のなかで「一行はついに高さ六十尺に近い朱塗りの大鳥居に到り着き、これをくぐると朱の楼門の前に、高く積まれた汚れた雪が取り囲む神楽殿にぶつかった。神楽殿の軒の三方には七五三縄が張りめぐらされ、高い杉の梢から、一条の歴々たる日ざしが、丁度床の上の白木の八朔台に立てられた御幣を照らしていた。まわりの雪の反映で、神楽殿は格天井までも明るんでいたが、御幣には届く日光はひとしおまばゆく、気高い幣は微風にそよいでいた」と境内の荘厳さを描き出している。この小説の中では、この神社が持つ荘厳さと富士山信仰の場という雰囲気によって、一行6名それぞれの深層の心情が浮かび上がってくる重要な場面となっている。この荘厳さや雰囲気を追体験するのも、この神社の味わい方だ。
富士山信仰を支えた御師の家は、現在も宿として運営されているところもあるが、国の重要文化財に指定されている「御師旧外川家住宅」などでは、見学も可能だ。富士山の自然も素晴らしいが、文化、宗教的な側面からアプローチをするのも面白い。
富士山信仰を支えた御師の家は、現在も宿として運営されているところもあるが、国の重要文化財に指定されている「御師旧外川家住宅」などでは、見学も可能だ。富士山の自然も素晴らしいが、文化、宗教的な側面からアプローチをするのも面白い。
補足情報
*創建:神社の由緒によると、日本武尊が大塚丘で富士山を遥拝したことに始まるとし、781(天応元)年、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、788(延暦7)年、大塚丘の北方に社殿を建立したと伝えている。江戸後期の「甲斐国志」の記述では「社後瑞垣ノ外ニ大ナル古塚アリ大塚ト號ス 土人相伝フ 是古社殿ナキ以前富士浅間遥拝ノ地ニ築ク 後神祠ヲ創造シ小室浅間明神を勧請スト云」としており、二合目にあった小室浅間社(現・小室浅間神社奥の宮)から、勧請して社殿を建立したとしている。その時期については、1223(貞応2)年だとしているが、創建か再建かどうかは不詳だとしている。「浅間」の名は、富士山や浅間山などの火山や火の神を指したものだと言われている。
*富士講:富士山への信仰については、平安時代前期の貴族で文人の都良香「山名富士 取郡名也 山有神 名淺間大神 此山高 極雲表 不知幾丈」として、すでに、この時期には信仰の対象となっていることが分かる。同時期の「日本霊異記」でも、修験道の開創役行者が伊豆に配流された際に毎夜富士山で修行をしたことが記されている。室町時代後半には修験者だけではなく庶民も登拝するようになり、江戸時代には、江戸を中心に信者たちにより数多くの「富士講」が組まれ、富士山を目指した。登拝だけでなく、山麓の霊地への巡礼や水行などの修行も行い、「内八海巡り」もそのひとつだ。道中の各所には宿坊ができ、北口本宮冨士浅間神社の周辺には宿舎の提供だけでなく、祈祷、宣教、登拝の先導を行う「御師」が出現し、御師町を形成した。しかし、明治時代の神仏分離政策により、富士講は衰退した。現在も、数は少ないが御師の宿や家があり、その面影と歴史を継承している。
*大鳥居:富士山の鳥居として、本社造立以前より建立されていたと伝えられている。以来、建替えや修理が繰り返され、近世以降は約六十年周期で再興事業が行われてきた。現在のものは1954(昭和29)年に竣功したもので、2014(平成26)年には大修理事業を行った。
*拝殿・本殿:本殿は1615(元和元)年鳥居土佐守創建、一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式。幣拝殿は1739(元文4)年村上光清建立、八棟造、向拝唐破風造、本殿に接続して全形は権現造。
*東宮と西宮:本殿の裏手にある。東宮本殿は一間社流造、桧皮葺で、武田信玄が1561(永禄4)年に再建したと伝えられている。反対側にある西宮本殿は一間社流造、桧皮葺で1594(文禄3)年建立とされている。
*富士講:富士山への信仰については、平安時代前期の貴族で文人の都良香「山名富士 取郡名也 山有神 名淺間大神 此山高 極雲表 不知幾丈」として、すでに、この時期には信仰の対象となっていることが分かる。同時期の「日本霊異記」でも、修験道の開創役行者が伊豆に配流された際に毎夜富士山で修行をしたことが記されている。室町時代後半には修験者だけではなく庶民も登拝するようになり、江戸時代には、江戸を中心に信者たちにより数多くの「富士講」が組まれ、富士山を目指した。登拝だけでなく、山麓の霊地への巡礼や水行などの修行も行い、「内八海巡り」もそのひとつだ。道中の各所には宿坊ができ、北口本宮冨士浅間神社の周辺には宿舎の提供だけでなく、祈祷、宣教、登拝の先導を行う「御師」が出現し、御師町を形成した。しかし、明治時代の神仏分離政策により、富士講は衰退した。現在も、数は少ないが御師の宿や家があり、その面影と歴史を継承している。
*大鳥居:富士山の鳥居として、本社造立以前より建立されていたと伝えられている。以来、建替えや修理が繰り返され、近世以降は約六十年周期で再興事業が行われてきた。現在のものは1954(昭和29)年に竣功したもので、2014(平成26)年には大修理事業を行った。
*拝殿・本殿:本殿は1615(元和元)年鳥居土佐守創建、一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式。幣拝殿は1739(元文4)年村上光清建立、八棟造、向拝唐破風造、本殿に接続して全形は権現造。
*東宮と西宮:本殿の裏手にある。東宮本殿は一間社流造、桧皮葺で、武田信玄が1561(永禄4)年に再建したと伝えられている。反対側にある西宮本殿は一間社流造、桧皮葺で1594(文禄3)年建立とされている。
関連リンク | 北口本宮冨士浅間神社(WEBサイト) |
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関連図書 | 「日本霊異記」,「山梨県の歴史散歩」山川出版社 |
参考文献 |
北口本宮冨士浅間神社(WEBサイト) 富士の国やまなし やまなし観光推進機構(WEBサイト) 「日本三代実録」国立国会図書館デジタルコンテンツ(WEBサイト) 「甲斐国志」国会図書館デジタルコンテンツ(WEBサイト) 三島由紀夫「豊饒の海 暁の寺」新潮社 |
2024年07月現在
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