身延山久遠寺みのぶさんくおんじ

JR身延線身延駅より、北西に5kmほどの山間に入った、身延山*(1153m)の山ふところにある。久遠寺は日蓮宗*の総本山で、この地は日蓮門下の祖山とされ、「身延山」の名で篤い崇敬を寄せられており、全国から多くの信者や観光客が詣でる霊山である。
 総門*から続く門前町の突き当たりにある三門をくぐると、大木の杉木立を両側に菩提梯という287段の胸を突くような石段が現れる。これを登り詰めると平らな境内に本堂(地下に宝物館)*、祖師堂、御真骨堂*、仏殿、五重塔*、大客殿などの多数の伽藍が身延山を背に建つ。身延山の山頂には奥之院*があり、登拝路もあるが、本堂の奥からロープウエイが通じている。奥之院はこの寺の開祖である日蓮が修行の場としたほか、生まれ故郷の房総半島に思いを馳せた場所といわれるほど展望に恵まれている。多数の伽藍の建つ境内の西側の谷には、1274(文永11)年、領主南部六郎実長の帰依を受けて日蓮が営んだ草庵跡と御廟所*がある。この西谷と中谷、東谷には支院、宿坊が甍を並べ、各所にシダレザクラが植えられ、花の名所としても知られている。
 年中行事の御会式日蓮上人忌(10月11~13日)での万灯練り供養行列は、2千人ほどの信者が和紙の桜花で飾り付けられた万燈を引き、太鼓、笛、鐘によるお囃子に合わせ練り歩く。
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みどころ

五木寛之は「百寺巡礼」のなかで 「堂々たる三門をくぐり抜けると、参道がまっすぐに伸びている。その両側は亭々たる杉木立だ。しばらく 進んで足を止めた。正面に黒い壁のようなものが立ちはだかっている…中略…その壁は、じつは目もくらむような高さの石段だったのだ」と久遠寺の参道の石段について描写している。その石段は一段が普通の石段より倍近くあり、登るのに苦渋するが、登り切れば、「頂上で本堂に迎られる感覚は、まさに『菩提』かもしれない」とも記している。ぜひ、参拝の際は挑戦することをお勧めする。足に自信がない場合には、男坂、女坂があり、さらに参拝者用駐車場からは無料のエレベーターも取り付けられている。
 祖廟と草庵跡についても五木寛之は「あたりは、うっそうとした老杉の木立に覆われ…中略… 幽邃境と言われる森のなかである。 森厳 の気が満ちるあたり 一帯に人影はない」と日蓮が修行と著作に励んだ、この場所を表現している。日蓮の篤い信仰の道を体感できる場所と言えよう。
 奥の院の眺望は素晴らしい。三つの展望台があり、東側の展望台からは天子山塊の上に富士山を望み、南側展望台からは駿河湾・伊豆半島、北側展望台からは七面山、早川渓谷、さらには南アルプス・八ヶ岳連峰・甲府盆地をはるかに見渡せる。七面山は古くから山岳信仰の修験場であったが、日蓮が身延山に入山してからは法華経の霊山としても崇敬を集めるようになった。標高1100mからの大パノラマを楽しみたい。
 総門と三門の間には、旅館や土産物屋などが建ち並び門前町の賑わいを見せ、そぞろ歩きも楽しい。また、境内周辺には宿坊も並び、春になるとシダレザクラが咲き競い、谷あいを埋め尽くさんばかりである。
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補足情報

*身延山:身延の名は、甲斐国志によると、古歌に「わすれては雨かとそ思ふ瀧の音にみのふの山の名をやからまし」とあり、西行法師も「雨しのぐみのふの里」と詠んでいることから、「蓑夫」の意味であったとし、日蓮がその字を「身延」に改めたと伝えられている、と記している。
*日蓮宗:日蓮(1222年~1282)年は安房小湊に生まれ、清澄寺、比叡山などに学ぶ。1253(建長5)年に南無妙法蓮華経の題目を称え日蓮宗を開宗し、1260(文応元)年に『立正安国論』を著す。数度にわたる鎌倉幕府への諫言を行ったため弾圧をうけ、佐渡などへ配流された。その危難を乗り越え、1274(文永11)年から身延山に入山し草庵を構え『撰時鈔』、『報恩鈔』など多くの著述を残した。1281(弘安4)年には、草庵を廃して本格的な堂宇を建築し、「身延山妙法華院久遠寺」と自ら命名した。1282(弘安5)年まで9年間、身延山に留まったが、同年、武蔵国池上(東京都大田区)にて入寂した。
*総門:28世日奠上人が1665(寛文5)年に建立したと伝えられる。36世日潮上人の染筆になる扁額の「開会関」は全ての人々が法華経のもとに救われる関門という意味。
*三門:1907(明治40)年に再建された高さ約21mの門。間口は廊門を加えて約42m、重層、総欅造の大建築である。左右には仁王、楼上に十六羅漢像を安置する。
*菩提梯(ぼだいてい):三門につづく石畳から真直ぐに登る急な石段。17世紀半ば、佐渡の仁蔵とその子孫数代によって造られたといわれる。総高約105m、287段の石段は題目の7字にちなんで7区分されている。左右に男坂と女坂がある。
*本堂(地下に宝物館):本堂は1875(明治8)年の大火で焼失。1985(昭和60)年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建された。間口32メートル、奥行51メートル。地下の宝物館には国宝の徽宗皇帝筆『絹本着色夏景山水図』や国の重要文化財『宋版礼記正義図』をはじめ、日蓮直筆と伝える『曼荼羅本尊』や日本最古の返点つき法華経といわれる『心空嘉慶点法華経』など約40点を所蔵、展示している。(入替あり)
*御真骨堂:御真骨堂は1881(明治14)年の建立。拝殿は木造平屋建、銅板葺き。御堂は土蔵造りの八角円堂で、日蓮の遺骨を納める。同所に安置する四天王像は後藤祐乗(ゆうしよう)の作と伝えられる。御真骨堂に向かって左には日蓮の像を祭る祖師堂、右には仏殿納牌堂・大客殿、江戸時代の名園をもつ水鳴楼などがつづく。正面には開基堂と呼ばれる多宝塔がある。
*五重塔:1875(明治8)年に焼失したが2009(平成21)年に再建。木材は全て国産を使用し、400年前に建てられたという元和の塔を忠実に復元・再建した。
*草庵と御廟:草庵跡は石柵に囲まれており、その右奥に日蓮の廟所がある。「何処にて死に候(さぶらふ)とも墓をば身延山にたてさせ給へ、未来際までも心は身延山に住むべく候」との日蓮の遺志によってこの地へ葬られた。近くに六老僧(日蓮の高弟、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)や歴代身延山住持の墓が並んでいる。
*奥ノ院:身延山頂にあり、思親閣が建つ。日蓮がこの峰より両親を追慕したといわれ、日蓮没後、弟子日朗によって堂宇が建立された。山頂よりの眺めは脚下に富士川、その奥、東には富士山が覗く。西北には七面山、その先には南アルプス連峰を望む。
関連リンク 久遠寺(WEBサイト)
関連図書 「山梨県の歴史散歩」山川出版社
参考文献 「甲斐国志」国立国会図書館デジタルコンテンツ(WEBサイト)
五木寛之「百寺巡礼」久遠寺 講談社
「身延山鑑」国立国会図書館デジタルコンテンツ

2024年07月現在

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