赤沢宿あかざわのしゅく

身延山の西、七面山*(1982m)の麓を流れる春木川の谷を見下ろす急な斜面にへばりつくようにあるのが、赤沢宿である。
 古くから七面山は山岳信仰の対象で修験場であったが、日蓮*が身延山に久遠寺を開創して以降、七面山が身延山の守護神七面大明神*の鎮座する山としても崇敬されはじめ、身延山と七面山を信者が行き交うようになった。江戸時代初期にお萬の方*の功績により七面山の女人禁制が解かれ、その後、富士講、身延講などの講中が盛んになったことなどから、七面山への参詣者も急増した。それに伴い七面山の登詣道も整備され、身延山から七面山に向かう途中にある赤沢宿は旅籠、強力、駕籠人足などが用意され講中宿場として発展した。さらに大正から昭和期にかけては身延線が開通したこともあり参詣客も急増し、赤沢宿も隆盛をきわめた。しかし、交通事情の変化により、第2次世界大戦後、宿場を利用する参詣客が激減した。
 現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、順次修復も進み、講中宿の家並み*と石畳、石段、古道などが住時の佇まいをよく残している。
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みどころ

集落は、急斜面のわずかな平地に、往時の面影を残す伝統的建造物が建ち並び、家並みや参道、敷地の形態、石畳、古道、石段などの歴史景観が周囲の山々の自然景観と良く調和している。マイカーの場合、駐車場所が少ないので、注意が必要だ。また、急坂、石段、石畳が多いので、靴や足元にも配慮が必要。
 赤沢宿からは、正面に七面山も見渡すことができ、また、宿場内の重要伝統的建造物群を見て回ると、講中が奉納し講中の定宿の証しともなった「板マネギ」が軒下にところ狭しと掲げられているのを目にすることができ、この宿場と七面山の信仰の歴史に思いを馳せるには格好の場所だ。赤沢宿資料館もあるので立ち寄りたい。新緑、紅葉も見事。
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補足情報

*七面山:南アルプスの前衛。山名の由来は江戸中期の「身延鑑」によると、「此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。…中略…七面をひらき七難をはらひ、七福をさずけたふ。七ふしぎの神の住ませたふゆへに七面と名付侍る」と伝えられている。
*日蓮:1222~1282年。安房小湊に生まれ、清澄寺、比叡山などに学ぶ。1253(建長5)年に南無妙法蓮華経の題目を称え日蓮宗を開宗し、1260(文応元)年に『立正安国論』を著す。数度にわたる鎌倉幕府への諫言を行ったため弾圧をうけ、佐渡などへ配流された。その危難を乗り越え、1274(文永11)年から身延山に入山し草庵を構え『撰時鈔』、『報恩鈔』など多くの著述を残した。1281(弘安4)年には、草庵を廃して本格的な堂宇を建築し、「身延山妙法華院久遠寺」と自ら命名した。1282(弘安5)年まで9年間、身延山に留まったが、同年、武蔵国池上(東京都大田区)にて入寂した。
*七面大明神:日蓮と七面山のつながりの伝承については、「身延鑑」では、建治(1275年~1278年)の頃に日蓮が読経する「庵室に廿ばかりの化高き女」が日蓮の御前近くに「渇仰の躰」で居たので、周囲のものが不審に思ったところ、その女は「我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人のお経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り」と言い、その正体を知っていた日蓮は「垂迹の姿現はし給へと、阿伽の花瓶を出し給へば、水に影を移せば、壱丈あまりの赤龍とな」ったという。そして「身延山に於て水火兵革等の七難を払ひ、七堂を守るべしと固く誓約ありてまたこの池に帰り棲み給ふ」と言い残して去ったとしている。
*お萬の方:徳川家康の側室。紀伊家の祖頼宣、水戸家の祖頼房の生母。女人成仏を説く法華経を守護する七面山への登詣を願い、白糸の滝で7日間身を清めて女性として初めて登拝した。
*講中宿の家並み:明治初期には9軒の宿があったと言われるが、現在は、宿泊施設としては2軒のみが営業、3軒が休憩所、カフェ、蕎麦屋に衣替えしている。在来工法で現存する建物は主屋32棟と土蔵など付属屋51棟であるが、そのうち1868(明治元)年までに建築されたものが30棟ほど残されている。これらの建物は、建築時においては、小屋組構造、平入切妻屋根、草葺き屋根や笹板葺き石置屋根が一般的であったが、明治、大正期以降に増改築・修復された部分も多い。

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