七面山敬慎院しちめんざんけいしんいん

身延山の西方約6kmにそびえる七面山*(標高1982m)の山頂近く、標高1720mのところにある。もともとは山岳信仰の対象となっていたが、日蓮*の身延山入山とともに、法華経の霊山ともなり、末法の世に法華経を奉ずる者を守護するという七面大明神*を祭るようになった。ただ、日蓮自身の登拝はなく、高弟の日朗*によって1297(永仁5)年に開かれ、敬慎院の開祖となった。山頂近くの随身門の前から拝する富士を正面とした御来光は名高い。
 敬慎院の伽藍は七面大明神をまつる七面山本社を中心に、池大神宮、願満社、参籠殿からなる。七面山本社は東向きに富士山に向かって建てられ、七面造りといわれる。現在の七面山本社の建物は、1785(天明5)年の再建で、拝殿は檜皮葺き、幣殿および本殿は檜皮葺きから1885(明治18)年に銅板葺きに改修された。
 七面山へは身延山久遠寺奥之院から赤沢宿を通り、白糸滝*から七面山南斜面の表参道を登るのが正規のコースで、久遠寺からその頂上までは徒歩で20数kmの道のりとなる。現在は、バス便がある早川沿いの角瀬から入って表参道をたどる人がもっとも多い。角瀬のバス停から登山口(標高607m)までは約3km、登山口から山頂までは一般的には4~5時間の登り。角瀬から七面山北斜面を登る裏参道もある。
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みどころ

七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行く苦行ではあるが、その道程が修行、祈りの道であったことを体感することができ、敬慎院では参籠も可能だ。登山口から敬慎院まで、50丁の里程があり、神力坊など4つの休憩所が設けられ、登詣者を励ましてくれる。
 1700mを超える山中にある伽藍は荘重な景観を見せてくれる。富士山をシルエットにして昇るご来光も、見ごたえがある。
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補足情報

*七面山:南アルプスの前衛。山名の由来は江戸中期の「身延鑑」によると、「此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。…中略…七面をひらき七難をはらひ、七福をさずけたふ。七ふしぎの神の住ませたふゆへに七面と名付侍る」と伝えられている。
*日蓮:1222~1282年。安房小湊に生まれ、清澄寺、比叡山などに学ぶ。1253(建長5)年に南無妙法蓮華経の題目を称え日蓮宗を開宗し、1260(文応元)年に『立正安国論』を著す。数度にわたる鎌倉幕府への諫言を行ったため弾圧をうけ、佐渡などへ配流された。その危難を乗り越え、1274(文永11)年から身延山に入山し草庵を構え『撰時鈔』、『報恩鈔』など多くの著述を残した。1281(弘安4)年には、草庵を廃して本格的な堂宇を建築し、「身延山妙法華院久遠寺」と自ら命名した。1282(弘安5)年まで9年間、身延山に留まったが、同年、武蔵国池上(東京都大田区)にて入寂した。
*七面大明神:日蓮と七面山のつながりの伝承については、「身延鑑」では、建治(1275~1278年)の頃に日蓮が読経する「庵室に廿ばかりの化高き女」が日蓮の御前近くに「渇仰の躰」で居たので、周囲のものが不審に思ったところ、その女は「我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人のお経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り」と言い、その正体を知っていた日蓮は「垂迹の姿現はし給へと、阿伽の花瓶を出し給へば、水に影を移せば、壱丈あまりの赤龍とな」ったという。そして「身延山に於て水火兵革等の七難を払ひ、七堂を守るべしと固く誓約ありてまたこの池に帰り棲み給ふ」と言い残して去ったとしている。
*日朗:1245~1320年。若くして日蓮門下となり、以後常に日蓮に付きそった。日蓮佐渡流罪の際には、鎌倉幕府によって鎌倉の土牢につながれた。六老僧のひとり。鎌倉比企谷に妙本寺を建立。日蓮終焉の地の武蔵国池上(東京都大田区)に池上本門寺も建立した。
*白糸滝:七面山登山口近くにあり、落差30mほどの滝。滝の脇には七面山の女人禁制を解いたお萬の方の銅像が立つ。お萬の方は徳川家康の側室で、紀伊家の祖頼宣、水戸家の祖頼房の生母。女人成仏を説く法華経を守護する七面山への登詣を願い、白糸の滝で7日間身を清めて女性として初めて登拝した。
関連リンク 七面山敬慎院(WEBサイト)
関連図書 「山梨県の山」山と渓谷社,「山梨県の歴史散歩」山川出版社
参考文献 七面山敬慎院(WEBサイト)
デジタル版「身延町誌」(WEBサイト)
「甲斐国志」国立国会図書館デジタルコンテンツ(WEBサイト)
七面山登詣しおり
「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版

2024年07月現在

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