雲峰寺うんぽうじ

JR中央本線塩山駅から北東へ約8km、大菩薩嶺の山ふところにある。「甲斐国志」によると、「寺記曰天正十七(745)年行基菩薩草創*本尊十一面観音行基手自彫刻焉」と伝えられ、また、甲斐源氏の府城の鬼門にあったところから、武田氏などからの崇敬を受けたという。当初、真言宗であったが、その後臨済宗に改宗している。
 天文年間(1532~54)に火災を受けたが、武田信虎*によって再興された。鬱蒼とした木立に囲まれた仁王門*、本堂*、庫裏*はこの時期(室町末期)に建立されたものといわれ、書院*は江戸時代初期とされる。
 1582(天正10)年、武田勝頼が織田・徳川連合軍との天目山麓の合戦で敗れ一族とともに自刃した折、家臣たちが再興を期し武田家の馬印、軍旗などを納めたといわれ、それらが宝物殿に保存、公開されている。
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みどころ

深田久弥の「日本百名山」のなかに「大菩薩峠への登山口に雲峰寺 という古い寺がある。本堂は入母屋造り桧皮ぶきの美しい建物」と記されている。登山口に続く道から杉・桧におおわれた長い急な石段(198段)の参道を登ると、まず仁王門に出合う。さらに登ると正面に本堂、庭をはさんで裏に書院、右手に庫裏が配置されている。禅宗寺院らしい簡素で落ち着いた雰囲気。なお、書院は普段は塀越しにしか見学することができない。
 中里介山の小説「大菩薩峠」*では「一人の武者修行の者があって、武州から大菩薩を越え、この裂石の雲峰寺へ一泊を求めた時に、雲衲が集まっての炉辺の物語」として主人公机竜之介の武州沢井(現・東京都青梅市、大菩薩峠は甲州から武州に抜ける脇街道だった)の道場の荒廃ぶりについて、武者修行者と修行僧が語り合う場面を描いている。現在は、山あいの小さな古刹という趣だが、境内は往時の姿を思い描くには十分な静寂さと風情がある。
 宝物殿には、「風林火山」で知られる「孫子の旗」など、武田氏にゆかりの品が展示され、強兵といわれた武田軍団の名残りをみることができる。
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補足情報

*行基菩薩草創:大菩薩嶺に妙見堂などがあり、古くから山岳信仰の場であったところから、行基開創の伝承につながったと思われる。
*武田信虎:武田氏の先祖「甲斐源氏」は清和源氏の流れを汲み、1130(大治5)年に常陸国那珂郡武田郷から甲斐国に移り住み、甲府盆地を中心に本拠を築き、「武田」の姓を名乗りはじめたことに由来するといわれている。その後、一族間での主導権争いが続いたが、信虎(1494~1574)が甲斐国を統一し、甲斐の府中「甲府」に本拠地を定め、隣国の今川氏、北条氏と拮抗できる勢力となった。しかし、1541(天文10)年に嫡男である信玄との不仲から駿河国に退隠させられた。信玄の死後も生き延びたが、伊那高遠で没した。
*仁王門:正面約6.8m、側面3.6m。一戸三間八脚門単層屋根入母屋造りの茅葺き(室町後期建立)。
*本堂:正面約12m、側面約11m、単層、入母屋造、桧皮葺で、唐破風向拝が連結している(室町後期建立)。
*庫裏:正面約11m、側面18m、単層、切妻造妻入、茅葺。(室町後期建立)。
*書院:正面14.5m、側面9m、茅葺、寄棟造。1716(正徳6)年建立。
*馬印・軍旗:後冷泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜されたと伝えられる「日の丸の御旗」をはじめ、武田の軍旗「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬印旗」が展示されている。 
*小説「大菩薩峠」:作者の中里介山は1885(明治18)年、神奈川県西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)生まれ。 1944(昭和19)年没。1913(大正2)年から「都新聞」に「大菩薩峠」を連載。 その後、掲載紙を変えつつ、断続的に1941(昭和 十六)年まで執筆が続いた。しかし、あまりにも長編(41巻)であっため未完のままで終わっている。 時代は幕末、剣士「机竜之助」を主人公とし、物語は大菩薩峠から始まり、様々なところに旅をしつつ歴史的な場面に遭遇する。主人公の生き様は極めて虚無的で、周囲の登場人物たちはそれに巻き込まれていく。中里介山自身が「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づく人間の業を描いたとされている。
関連リンク 甲州市観光協会(WEBサイト)
参考文献 甲州市観光協会(WEBサイト)
「甲斐国志」国立国会図書館デジタルコンテンツ(WEBサイト)
深田久弥「日本百名山」新潮社
中里介山「大菩薩峠」筑摩書房
雲峰寺パンフレット

2024年07月現在

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