一乗谷朝倉氏遺跡
福井市街の南東約10kmの一乗谷は戦国大名の雄朝倉氏*が5代103年間にわたって本拠地とし、独特の文化をはぐくんだところ。
1573(天正元)年8月、織田信長軍に与する平泉寺衆徒の放火により、栄華をきわめた城下町は灰燼に帰した。その後越前支配の中心は北ノ庄に移り、一乗谷は農地として維持された。それがかえってよく、昭和初期に往時の館跡がほぼ完全な形で発見され、1971(昭和46)年に約278万m2の範囲が特別史跡として指定され、平地部の遺跡主要部約25haが公有化された。
1991(平成3)年には、四庭園*が特別名勝に指定された。さらに2007(平成19)年には、出土品の内2,343点が国の重要文化財の指定を受けた。出土品は足羽川沿いの朝倉氏遺跡資料館に展示されている。
平面復元地区の山際には寺院跡があって、土塁、卒塔婆、墓地などが発見されている。道路沿いには、紺屋、数珠屋、鋳物師、檜物師、刀研ぎ師などの職人の家や坪庭のある医師の家が立ち並び、武家屋敷*や町屋が形成されていた。その面影を伝えるため、一部が復原されている。
1573(天正元)年8月、織田信長軍に与する平泉寺衆徒の放火により、栄華をきわめた城下町は灰燼に帰した。その後越前支配の中心は北ノ庄に移り、一乗谷は農地として維持された。それがかえってよく、昭和初期に往時の館跡がほぼ完全な形で発見され、1971(昭和46)年に約278万m2の範囲が特別史跡として指定され、平地部の遺跡主要部約25haが公有化された。
1991(平成3)年には、四庭園*が特別名勝に指定された。さらに2007(平成19)年には、出土品の内2,343点が国の重要文化財の指定を受けた。出土品は足羽川沿いの朝倉氏遺跡資料館に展示されている。
平面復元地区の山際には寺院跡があって、土塁、卒塔婆、墓地などが発見されている。道路沿いには、紺屋、数珠屋、鋳物師、檜物師、刀研ぎ師などの職人の家や坪庭のある医師の家が立ち並び、武家屋敷*や町屋が形成されていた。その面影を伝えるため、一部が復原されている。
みどころ
細長い谷底平野の最も狭くなる南北の2か所に土塁を築き、城門を置いた。南北1.7kmの内側に1万人、外側に2万~3万人が暮らしていた。当時、京、堺に次ぐ規模のまちだった。
16世紀の城下が体感できるよう、南北200mの町並みが復原されている。礎石に残る焼け跡、出土した柱から材質や加工方法などを割り出して再現した。道路沿いには、大甕を並べた紺屋、数珠屋、鋳物師、刀研ぎ師などの職人の家や坪庭のある医者の家などが立ち並んでいる。建物はどれも小さく、単純なつくりである。武将たちの館と特別名勝になっている4庭園は、一乗谷川の東側の一乗城山の麓に造られた。
重要文化財の生活道具などを展示する一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、2022(令和4)年10月に「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」としてオープンする。越美北線の一乗谷駅の近くにあり、かなり広い一乗谷であるが、2~3時間で歩いて回れるので、あらかじめこの時間を組み込んで訪れて欲しい。(溝尾 良隆)
16世紀の城下が体感できるよう、南北200mの町並みが復原されている。礎石に残る焼け跡、出土した柱から材質や加工方法などを割り出して再現した。道路沿いには、大甕を並べた紺屋、数珠屋、鋳物師、刀研ぎ師などの職人の家や坪庭のある医者の家などが立ち並んでいる。建物はどれも小さく、単純なつくりである。武将たちの館と特別名勝になっている4庭園は、一乗谷川の東側の一乗城山の麓に造られた。
重要文化財の生活道具などを展示する一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、2022(令和4)年10月に「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」としてオープンする。越美北線の一乗谷駅の近くにあり、かなり広い一乗谷であるが、2~3時間で歩いて回れるので、あらかじめこの時間を組み込んで訪れて欲しい。(溝尾 良隆)
補足情報
*朝倉氏:朝倉氏は足利尊氏の武将斯波(しば)高経に仕え、現在の福井市黒丸を居城としていた。1471(文明3)年、7代敏景(としかげ)*のとき、一乗谷に移り、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年にわたり北国の雄として君臨した。11代義景(1533~1573年)は文化中心主義をとり、平穏な生活を指向した。これが織田信長との対立に不利を招き、一族の離反相次いで悲劇的な最期に結びついていく。
*四庭園
・朝倉館跡庭園:6,500m2ほどの敷地があり、三方は土塁と濠で囲まれている。常御殿、主殿、会所、茶室、日本最古の花壇、台所、厩、蔵などが整然と配置されていた。山際の庭園は力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれる。
・湯殿跡庭園:館跡を見下ろす山腹にあり、1967(昭和42)年の発掘。桃山時代の初期と推定される一乗谷で最古の庭園。鶴岩亀岩を思わせる島や出島があり、水路が山際に沿って走り滝口にそそぐ池泉庭園になっている。
・諏訪(すわ)館跡庭園:館林の南330mにあり、義景の妻の「小少将」(こしょうしよう)の邸宅跡といわれる。高さ5m、幅3m余の巨岩を筆頭に数十個の巨石を組み合せた豪快な作庭方法で、遺跡中でももっとも注目されている。義景の死後、今庄町付近で信長の手勢に殺害された。
・南陽寺(なんようじ)跡庭園:後の将軍足利義昭を招いて観桜の遊宴を行ったところといわれる。京都金閣寺を模したという石組みに、蓬莱(ほうらい)形式(中国の古い思想である神島蓬莱山の姿を庭園に模したものにより、池を海に見立て、石などで中島を作って蓬莱山に見立てる。庭園の形式としては古いものに属する)をみせる庭園の跡が苔に覆われて残っている。
*唐門(からもん):館跡の正面、道路に面して立ち、遺跡への入口に位置している。桧皮葺で、1598(慶長3)年豊臣秀吉が朝倉氏慰霊のために寄進したものといわれる。
*武家屋敷:一乗谷川の西側の山麓にあり、1984(昭和59)年に復原された。間口、奥行ともに約30m、表門から向かって右側に約90m2の母屋、左側に井戸・使用人住居、奥に蔵がある。いずれの建物も木造平屋建、板葺切妻造。規模からみて家老級に次ぐ武士の住居と思われる。
*朝倉敏景(あさくらとしかげ)墓(英林塚):館跡から2分ほど山道をのぼった竹林の中、近代的な覆堂の中に納まっている。敏景は初めて一乗谷へ築城して繁栄の基礎をなした。この墓は折にふれて鳴動するといういい伝えがある。
*四庭園
・朝倉館跡庭園:6,500m2ほどの敷地があり、三方は土塁と濠で囲まれている。常御殿、主殿、会所、茶室、日本最古の花壇、台所、厩、蔵などが整然と配置されていた。山際の庭園は力強い滝石組、護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との交流が偲ばれる。
・湯殿跡庭園:館跡を見下ろす山腹にあり、1967(昭和42)年の発掘。桃山時代の初期と推定される一乗谷で最古の庭園。鶴岩亀岩を思わせる島や出島があり、水路が山際に沿って走り滝口にそそぐ池泉庭園になっている。
・諏訪(すわ)館跡庭園:館林の南330mにあり、義景の妻の「小少将」(こしょうしよう)の邸宅跡といわれる。高さ5m、幅3m余の巨岩を筆頭に数十個の巨石を組み合せた豪快な作庭方法で、遺跡中でももっとも注目されている。義景の死後、今庄町付近で信長の手勢に殺害された。
・南陽寺(なんようじ)跡庭園:後の将軍足利義昭を招いて観桜の遊宴を行ったところといわれる。京都金閣寺を模したという石組みに、蓬莱(ほうらい)形式(中国の古い思想である神島蓬莱山の姿を庭園に模したものにより、池を海に見立て、石などで中島を作って蓬莱山に見立てる。庭園の形式としては古いものに属する)をみせる庭園の跡が苔に覆われて残っている。
*唐門(からもん):館跡の正面、道路に面して立ち、遺跡への入口に位置している。桧皮葺で、1598(慶長3)年豊臣秀吉が朝倉氏慰霊のために寄進したものといわれる。
*武家屋敷:一乗谷川の西側の山麓にあり、1984(昭和59)年に復原された。間口、奥行ともに約30m、表門から向かって右側に約90m2の母屋、左側に井戸・使用人住居、奥に蔵がある。いずれの建物も木造平屋建、板葺切妻造。規模からみて家老級に次ぐ武士の住居と思われる。
*朝倉敏景(あさくらとしかげ)墓(英林塚):館跡から2分ほど山道をのぼった竹林の中、近代的な覆堂の中に納まっている。敏景は初めて一乗谷へ築城して繁栄の基礎をなした。この墓は折にふれて鳴動するといういい伝えがある。
| 関連リンク | 一般社団法人朝倉氏遺跡保存協会(WEBサイト) |
|---|---|
| 参考文献 |
一般社団法人朝倉氏遺跡保存協会(WEBサイト) パンフレット「一乗谷朝倉氏遺跡」(一般社団法人朝倉氏遺跡保存協会) |
2025年11月現在
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