北方文化博物館
阿賀野川西岸の小さな集落沢海に、江戸中期、農より身を起こし、代を重ね越後随一の大地主になったのが伊藤家である。明治に入り、農地の集約を計り、全盛期には、所有の田畑1,372町歩(約14ha)、山林1,000町歩(約10ha)を超え、差配人78名、米蔵58か所、小作人2,800名を数え、作徳米約3万俵といわれ、昭和期には県下一の地主となった。
1882(明治15)年から8年がかりで建てられた本邸は、敷地8,800坪(約2万9千m2)、建坪1,200坪(約4千m2)、部屋数65を数える純日本式住居である。戦後、農地解放によりこれらの土地は伊藤家から離れ、1946(昭和21)年、遺構保存のため、財団法人北方文化博物館が創設され、これに全部寄付された。
邸内で興味深い建物、三楽亭は正三角形の小亭で建坪11坪余、1891(明治24)年頃の建造物。柱、建具、畳に至るまですべて三角または菱形の書斎兼茶室である。庭園も見ごたえがあり、全国各地の銘石を配した鎌倉・室町の古式によってつくられた回遊式庭園で、庭には5つの茶室が配されている。庭師田中泰阿弥が1953(嘉永6)年頃からこの地にとどまり、3年の歳月をかけて作り上げた。
1882(明治15)年から8年がかりで建てられた本邸は、敷地8,800坪(約2万9千m2)、建坪1,200坪(約4千m2)、部屋数65を数える純日本式住居である。戦後、農地解放によりこれらの土地は伊藤家から離れ、1946(昭和21)年、遺構保存のため、財団法人北方文化博物館が創設され、これに全部寄付された。
邸内で興味深い建物、三楽亭は正三角形の小亭で建坪11坪余、1891(明治24)年頃の建造物。柱、建具、畳に至るまですべて三角または菱形の書斎兼茶室である。庭園も見ごたえがあり、全国各地の銘石を配した鎌倉・室町の古式によってつくられた回遊式庭園で、庭には5つの茶室が配されている。庭師田中泰阿弥が1953(嘉永6)年頃からこの地にとどまり、3年の歳月をかけて作り上げた。
みどころ
終戦直後、進駐軍のライト中尉が伊藤家を調査に訪れた際、偶然にも七代当主が母校ペンシルバニア大学の先輩とわかり交流を深める。ライト中尉は伊藤邸を価値ある文化遺産と位置づけ、以降草創期の北方文化博物館に絶大な支援を与えることとなる。北方文化博物館は、戦後、アメリカと日本の友情による絆が再び芽吹いた場所でもある。(溝尾 良隆)
補足情報
*県の迎賓館として使用されることも多く、2019(平成31・令和元)年のG20でも迎賓館として使用された。
関連リンク | 北方文化博物館(WEBサイト) |
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参考文献 |
北方文化博物館(WEBサイト) にいがた観光ナビ(公益社団法人新潟県観光協会)(WEBサイト) |
2022年06月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。