新潟市は、新潟県の中西部に位置し、日本海に面し、信濃川、阿賀野川河口の沖積地を占める。聖籠町、新発田市、阿賀野市、五泉市、田上町、加茂市、三条市、燕市、弥彦村、長岡市と接する。また海上を隔てて佐渡市と向き合う。新潟県の県庁所在地である。
 JR上越新幹線、信越本線、越後線、白新線、羽越本線、磐越西線、北陸自動車道、磐越自動車道、佐渡航路、国道8号線が通じる。阿賀野川河口西岸に新潟空港があり、ロシア、韓国、中国などへの国際線も発着する。
 信濃川河口の中心市街は1672(寛文12)年以来、奥州回米船の寄航地として発達。1868(慶応4・明治元)年には開港場に指定され、以来北陸第1の都市として発展してきた。石油、金属、化学、機械、木材、製紙などの工業が行われている。信濃川河口の新潟港は特定重要港湾に指定された大工業港で、北東岸一帯は臨海工業地区である。
 広大な越後平野は、米のほか、野菜、果物、畜産物、花き類など、農畜産物の一大産地である。また佐渡周辺を漁場とする水産業も盛ん。
 日本海、信濃川、阿賀野川、福島潟、鳥屋野潟、ラムサール条約登録湿地(1999(平成11)年5月登録)である佐潟といった多くの水辺空間と里山などの自然に恵まれている。コハクチョウの越冬数は日本一を誇る。新潟市美術館、マリンピア日本海(水族館)、いくとぴあ食花、アグリパーク、みなとぴあ(歴史博物館)、旧新潟税関庁舎、旧齋藤家別邸、北前船の時代館・旧小澤家住宅、砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)、旧笹川家住宅、新津鉄道資料館、しろね大凧と歴史の館、朱鷺メッセ、北方文化博物館、萬代橋などの施設のほか、新潟まつり、にいがた総おどり祭など見どころが多い。

観光資源一覧

信濃川(河口付近)の写真

信濃川(河口付近) (新潟県 小千谷市 / 新潟県 十日町市 / 新潟県 燕市 / 新潟県 新潟市 / 新潟県 他 )

山梨・埼玉・長野の三県にまたがる甲武信ガ岳(2,475m)に源流を発し、千曲川として善光寺平に入ると最大の支流である犀川をあわせ、飯山盆地を経て、信越国境を越えて初めて、信濃川に名を改める。信越国境から小千谷までの「中流域」は、幾段もの河岸段丘を形成し、小千谷からは自らの土砂で生成した越後平野を貫流、新潟市で日本海に注ぐ...

旧笹川家住宅の写真

旧笹川家住宅 (新潟県 新潟市 )

笹川家は、安土桃山時代の信濃国水内郡笹川村から、この味方の地に移住し、1970(昭和45)年にこの地を離れるまで、14代300年以上にわたって続いた名家である。1649(慶安2)年から明治維新までは、9代にわたり味方組8か村、約8千石を束ねる大庄屋をつづけた。年貢の取りまとめ、藩から与えられた警察権・裁判権を行使していた。その一方で、...

福島潟の写真

写真提供:水の駅「ビュー福島潟」

福島潟 (新潟県 新潟市 )

福島潟は越後平野の北部、阿賀野川右岸に位置する262haの潟湖。浅い水域にはヨシ帯が島状に広がり、日本の原風景「豊葦原の国」を思わせる。  福島潟へは五頭連峰を主な水源とする13本の河川が流入、水面の標高マイナス0.7m、平均水深0.5mという越後平野の低湿地環境を象徴する存在で多様な生きものが生育、生息する自然豊かな湿地である。...

新潟まつりの写真

写真提供:新潟市役所 観光政策課

新潟まつり (新潟県 新潟市 )

新潟まつりは、住吉まつり、開港記念祭、川開き、商工祭の4つの行事*を総合して1955(昭和30)年から実施されている新潟の代表的な祭りである。2020(令和2)年は8月21日~23日の3日間開催。  約1万5,000人の踊り手が市街地の通りを埋め尽くす「大民謡流し」や古式ゆかしい住吉行列。港の安全と発展を願う水上おこし渡御、市民みこし、そ...

白根大凧合戦の写真

写真提供:白根大凧合戦実行委員会 事務局

白根大凧合戦 (新潟県 新潟市 )

越後平野を流れる大河「信濃川」の支流「中ノ口川」(川幅約80m)の両岸から、24畳分の大凧を揚げ、空中で絡ませ川に落とし、相手の凧綱が切れるまで引き合う勇壮な世界最大スケールの大凧合戦。  江戸時代の中頃、白根側の人が中ノ口川の堤防改修工事の完成を祝って藩主から送られた凧を揚げたところ、対岸の西白根側に落ち、家や農作物を...

佐潟の写真

佐潟 (新潟県 新潟市 )

佐潟は、新潟砂丘列間の低地に位置し、上流側の小さな上潟(うわかた)と、下流側の下潟(したかた)の、大小2つの潟から成り立つ淡水湖。潟の面積は43万6千m2、水深は平均1mと浅く、湖底は船底形をしている。外部からの流入河川はなく、周辺地域からの湧水と雨水で涵養されている。  この地域は、国定公園第3種特別地域として...

北方文化博物館の写真

北方文化博物館 (新潟県 新潟市 )

阿賀野川西岸の小さな集落沢海に、江戸中期、農より身を起こし、代を重ね越後随一の大地主になったのが伊藤家である。明治に入り、農地の集約を計り、全盛期には、所有の田畑1,372町歩(約14ha)、山林1,000町歩(約10ha)を超え、差配人78名、米蔵58か所、小作人2,800名を数え、作徳米約3万俵といわれ、昭和期には県下一の地主となった。 ...