信濃川(河口付近)しなのがわ(かこうふきん)

山梨・埼玉・長野の三県にまたがる甲武信ガ岳(2,475m)に源流を発し、千曲川として善光寺平に入ると最大の支流である犀川をあわせ、飯山盆地を経て、信越国境を越えて初めて、信濃川に名を改める。信越国境から小千谷までの「中流域」は、幾段もの河岸段丘を形成し、小千谷からは自らの土砂で生成した越後平野を貫流、新潟市で日本海に注ぐ。全長367kmは日本一の長流として知られ、利根川・石狩川に次ぐ11,900km2の流域に、300万近い人々が暮らす。
 全国一の豪雪地で融雪水が豊かな信濃川は、一年間の水量が日本一であり、用水や利水として人々の暮らしを支える「母なる大河」である。しかしそれは同時に、およそ3年に1度の割合で洪水の災害を起こし、低平地で湛水が長期化する「下流域」の住民は特に苦しめられてきた。子ども達が小気味よく舞う旧月潟村の角兵衛獅子は、かつて貧窮から口減らしと現金収入を得る途として始められたとも言われている。このような湛水の長期化をいくらかでも減じようとして、阿賀野川と一緒になっていた河口を分ける松ガ崎掘割が、新発田藩の手で1730(享保15)年に完成した。翌年の洪水で分派点の堰がすべて壊され、以来、阿賀野川は直接日本海へと注ぐ川となったが、周囲の湛水は減じるようになり新田開発の足掛かりとなった。大河川の「分水」が水害の解消に大きく貢献することを下流域の人々は身をもって感じることとなった。そこで目を向けられたのが信濃川を分かつ大河津分水である。明治初期に一度工事に失敗するものの、1907~1922(明治40~大正11)年の長期にわたる大工事でようやく通水し、5万haに及ぶ越後平野の水田は洪水の災害から救われた。さらに潟湖干拓事業や排水機場が建設され、1972(昭和47)年には新潟市郊外に関屋分水路も完成し、海抜ゼロメートル地帯の下流域は悪水との闘いにようやく終止符を打った。
 現在信濃川は支流も含め、100以上の発電所の電力源となっているほか、広大な水田の潅漑、飲料・工業用水といった総合的利用がなされている。「河口」の新潟市は、信濃川によって新潟駅のある新市街の東新潟と市役所・繁華街のある古町・西新潟にわかれ、柳都大橋・萬代橋*・八千代橋・昭和大橋・千歳大橋が双方の地区を結んでいる。
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みどころ

「中流域」は新潟県に入って信濃川と名前を変える津南から小千谷辺りまで、狭い渓谷にたっぷりと信濃川が流れ、見事な河岸段丘をつくっている。しかし信濃川が作ってきた「下流域」の平野部は、水量の多い信濃川がしばしば氾濫し住民を苦しめてきた。その解決策が大河津分水をはじめとする信濃川の分水計画であった。
 「河口」の新潟市は水量が安定したことにより全国でも珍しい緩やかな勾配の堤防「やすらぎ堤」が整備され、重要文化財の萬代橋や旧新潟税関庁舎等の歴史的建造物との景観も相まって、新たな観光スポットとして注目されている。また、その信濃川を航行する信濃川ウォーターシャトルが朱鷺メッセから萬代橋、県庁前、ふるさと村まで運行され、仕事やレジャーに利用されるほか、観光用には、屋形船「ばんだい丸」による2時間コースの遊覧もあり、昼食や夕食付きのコースもある。このように新潟市は信濃川の「河口」にある水都として、魅力あるまちとなっている。(溝尾 良隆)
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補足情報

*萬代橋:「水の都」の新潟のシンボル。2004(平成16)年、実用の橋として東京日本橋に続いて2番目の重要文化財に指定された。正式名称も、万代橋から建設当初の萬代橋へ変更した。萬代橋は1886(明治19)年11月、総工費約3万円かけて、全長782mの木造橋として完成した。当初、有料橋であったが、県が買い取り無料にした。1908(明治41)年の大火で焼失して、翌年2代目の木造橋がつくられた。1929(昭和4)年に現在の鉄筋コンクリート橋に架けかえられた。1964(昭和39)年の新潟地震では、他の橋が崩壊したにもかかわらず、この橋だけは健在だった。6つの連続アーチが織りなす芸術的な曲線を川面に映しながら、いまなお新潟の大動脈の役割を果たしている。
関連リンク 国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所(WEBサイト)
参考文献 国土交通省北陸地方整備局信濃川下流河川事務所(WEBサイト)
萬代橋(国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所)(WEBサイト)
にいがた観光ナビ(公益社団法人新潟県観光協会)(WEBサイト)
『新潟県の歴史散歩』山川出版、2009年
小泉武栄編集『図説 日本の山-自然が素晴らしい山50選-』朝倉書店、2012年6月

2022年06月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。

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