信濃川(大河津分水)しなのがわ(おおこうづぶんすい)

3年に1度の頻度で水害が発生していた越後平野。潟や沼が点在する低湿地帯であるため、水はけが悪く浸水が長期化したほか、腰まで水に浸かりながら稲刈りをする泥沼の深田が各地に広がっていた。その惨状は良寛も嘆くほどであった。
 1896(明治29)年7月22日に発生した「横田切れ」では越後平野のほぼ全域が約1か月にわたって浸水し、食料や住居を失い伝染病で苦しむ人々であふれた。死者43名、浸水家屋6万戸を超え、越後平野の農作物は壊滅した。
 こうした害を防ぐため、政府は1907(明治40)年に信濃川改良工事を決定、1909(明治42)年に起工式を行い、いわゆる「大河津分水工事」に着手した。度重なる地すべりにより掘削した分水路が塞がってしまったり、風雪が吹き荒れる中での工事であったり、決して簡単な工事ではなかったが、日本初の大型機械による掘削工事や日本初の空気と水の力を利用した堰による水量調節など、最新の技術を惜しみなく投入したことに加え、地域住民を中心に延べ1,000万人の献身的な作業が功を奏し、1922(大正11)年に通水した。工事費用は約2,350万円で、当時の新潟県の年間予算に匹敵する額であった。
 大河津分水の通水以来、信濃川の水害は激減し、土地改良事業等と相まって、日本有数の穀倉地帯を生み出し、かつての水害常襲地帯に上越新幹線や高速道路を通させ、政令指定市の新潟をはじめ越後平野の発展を支え続けている。
 大河津分水の延長は約10km、川幅約720mの分水口に可動堰が、川幅約160mの信濃川には洗堰が配置され、それぞれが連動しながら洪水を調節している。
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みどころ

大河津分水は佐渡弥彦米山国定公園の一角にあり、春は桜、夏は大河と弥彦山、秋は信濃川を遡上するサケ、冬は雪景色と景観も素晴らしい。また、このような風景を一望できる信濃川大河津資料館があり、4階の展望室から360度のパノラマビューにより、信濃川の本流と分水路がよく見えるほか、弥彦山や遠くは越後三山や苗場山、天気が良ければ佐渡島も望める。
 また、魚の遡上を横から見ることができる魚道観察室や、登録有形文化財の洗堰、棟方志功が感動し版画に収めた記念碑などがあり、自然、歴史、文化など多面的な要素を有している。
 なお、付近一帯は公園になっており、約3千本の桜が咲き誇り4月の開花期には大勢の花見客で賑わう。4月の第3日曜日には、満開のさくらのもとをきらびやかな衣装を着た行列が練り歩く「分水おいらん道中」が開催される。(溝尾 良隆)
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補足情報

*江戸時代、1730(享保15)年ころ(享保年間)、地元から幕府に分水の請願が提出された記録が残る。1870(明治3)年に工事に一度着手(第1期工事)するも土木技術の未熟さから失敗に終わり、その後もたびたび水禍に襲われたが、同時に先人たちの請願も繰り返され、1907(明治40)年に工事に着手(第2期工事)、1922(大正11)年に通水し、1924(大正13)年に竣工式が行われた。1927(昭和2)年には堰が陥没する大惨事が発生したが、技術者と地域住民の協働により新しい堰「可動堰」を建設する工事(補修工事)を1931(昭和6)年に竣工させた。平成になり大正後期に建設した洗堰と、昭和初期に建設した可動堰を新しく建設。現在の信濃川に流す水量を調節する「洗堰」が2000(平成12)年に通水、大河津分水路へ流す水量を調節する「可動堰」が2011(平成23)年に通水した。さらに、令和になり、分水路河口の川幅を広げる工事が行われており、インフラツーリズムや地域振興などへの活用が企画されている。
*分水路完成を記念して、周辺は公園になっており、自然探検ルートと歴史探訪コースなどが用意されている。4階建ての信濃川大河津資料館は、1階が分水の歴史と恩恵が模型やシアターで理解できるようになっている。2階は、川の技術と技術者が工事年表とともにわかる。3階が情報ライブラリー、4階が展望室になっている。
関連リンク 信濃川大河津資料館(WEBサイト)
参考文献 信濃川大河津資料館(WEBサイト)
パンフレット「信濃川大河津資料館」

2022年06月現在

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